『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』 村上春樹

[私信]

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

羊をめぐる冒険 (上) (講談社文庫)

羊をめぐる冒険 (上) (講談社文庫)

 村上春樹について書くのはなんだか恥ずかしいような気もする、「好きな作家は?」と聞かれて「村上春樹とか…」と答えるときの気恥ずかしさはいったいなんだろう。それに村上春樹について書くのはなんだか怖いような気もする。「その程度にしか読めない人間なのか」なんて思われたり「そんな風に読んでしまう人間なのか」なんて思われる気がする。まあそのように思われるなら思われるでしょうがないので、僕が村上春樹のどこが好きかっていうのを、ちょっと頑張って言ってみようと思う。さっき、ベッドでごろごろしながら画期的な村上春樹論なんてものを考えていたのだけど、全然そんなものは思い浮かばなくて、結局僕がいつも考えている、そして凡庸な村上春樹の感想しか思い浮かばなかった。それでも僕は書こうと思う。
 村上春樹がこの3部作で書く「僕」は、童貞ではないし、かといってあまりにたくさんの女の子とセックスをしているわけではなくって、21歳の男にしては、適度な数の女の子との経験を持っているように思う。「意識を失くした女の子と寝るようなやつは……最低よ。」と言われ「でも何もしてないぜ。」という感覚も、僕はすごく正常だと思う。ちょっとエスプリが効いた会話をものにしていて、趣味も悪くない。彼の友人の鼠にしたって、ちょっと変わりものではあるけど、変人とまでは言えないと思う。「僕」と鼠の会話、「僕」と女の子の、あるいは鼠と女の子の会話はたしかに魅力的なものだし、時々書かれる彼らのナンセンスな行動(僕は「僕」がカントを引用しながら配電盤のお葬式をするシーンがとても好きで、いつか機会があったら使おうとずっと覚えているのだけどなかなかそんなチャンスは巡ってこない)もすごく好きだ。架空の作家デレク・ハートフィールドを下敷きに、架空の存在を中心に置いた構造も好きだし、ピンボールの第一号機を発明したレイモンド・モロニーの挿話も面白い。本当に存在するのかわからないピンボール研究書「ボーナス・ライト」からの引用も洒落がきいてる(ところで、舞城王太郎は小学生の会話も、2ちゃんねるの文体も、少しずらしてサンプリングしつつ、そのグルーヴ感だけは完全に再現してしまう(斎藤環『文学の徴候』)、一方村上春樹は、サンプリングしたものをずらすことをしていないのに、どうしてか村上春樹の文章になってしまう。カントの文章だって、まるで村上春樹の文章そのものみたいだ)
 だけど僕が村上春樹の作品の中で特別に好きなのは、登場人物のさよならの仕方なんだと、いつも思う。鼠が街を出ようと決心し、それをジェイに伝えようとするのだけど、伝えられないシーンの鼠の心情、「何故彼の存在がこんなに自分の心を乱すのか鼠にはわからない…(中略)…見知らぬ他人がめぐり合い、そしてすれ違う、それだけのことだった。それでも鼠の心は痛んだ。」この3部作ではいつだって、このすれ違いが反復する。『風の歌を聴け』では「僕」と左手の指が4本しかない女の子、『1973年のピンボール』では「僕」と双子の少女、「僕」とピンボール(「一度も振り向か」ずに倉庫を去って行く描写はとても、印象的だ)、それに、鼠とジェイ、等。ジェイは鼠に「またいつか会おう。」と言うけど、「またいつか」が来なかったことを僕たちは知っている、『羊をねぐる冒険』でね(村上春樹は妥協を認めない人間なのだと思っていたんだけど、世界がそのつど完全に、完膚なきまでに終わるというほどには強く「アデュー」を意識していないね。神のもとで(といっていいのかわかんないけど)ちゃんと再開を果たしている)。それはとても寂しいことだと思う。本当に、とても寂しい。「僕」が語らないことを鼠はちゃんと、語っている。「僕」のさよならは、きっと皆が思っているほど淡白なものじゃない。
 今さら、村上春樹のことを書くのはなんだか恥ずかしかったけど、どうしても書かなければだめだった。他の誰が理解してくれなくてもきっと君だけは理解してくれるはずだ。いや、逆かもしれない、君が言っていたことをやっと、僕が理解したのかもしれない。「またいつか」なんて待つべきものじゃない。「またいつか」なんていうのは、永遠の別れなんだ。アデュー(僕はデリダのようにも、ナンシーのようにもそれを語れないけど)、僕の大好きだった人。また、いつか。明日は忘年会で、僕は君のことを忘れつつ、忘れない。