『パイロットフィッシュ』 大崎善生

 埼玉に行って、友達の家から何冊かの本を借りてきた。そのうちの1冊を帰りの電車の中で読み終えてしまったのだけど、それがとても良い小説だったのでメモしておこうと思う。大崎善生という人の『パイロットフィッシュ』と言う小説。説明のために終盤部分からの引用をしたりしているのでそういうのが気になる人は読まない方がいいかもしれない、けどあの引用部分は小説を読み進めてきて出会うから当たり前のことが感動的に思えるわけで別にここで見た後で本を読んでも感動が薄れるとかそういうことはないと思う。まあ念のために。あと『シガテラ』の内容も今日発売のヤンマガ掲載分まで含んで書いているのでまあそれもお好みで。


 熱帯魚を飼育するための水槽の水を透明に保つためには様々な努力を必要とするみたいだ、パイロットフィッシュによって水槽内のバクテリアの生態系を発展させた上で本当に育てたい熱帯魚を入れるということをしたり(その美しい響きにも関わらずパイロットフィッシュは水槽の生態系を整えた後は残酷な仕方で殺される、いや美しい響きだからこそ、なのかな)、バクテリアが増えすぎたらホルマリンでバクテリアを殺したり。登場人物によれば理論上は生態系によって水が半永久的に透明でありうるということだけど、現実にはいつかは生態系が崩れ、水槽内の水は汚れてしまうらしい。主人公の作り上げた水槽は完璧ではないだろうが、それでもとても美しい。物語の終盤で、透明すぎる水を見て、水が透明過ぎて切ない、と主人公の彼女は泣く。彼女はその時点では主人公とは幸せにやっている、それが透明すぎる水を見て泣いてしまった原因なんじゃないかと思う。この小説では主人公の出会いと別れが繰り返し描写される。出会い-別れが繰り返されるなかでいまだ主人公と彼女の出会いは別れに辿り着いていない。しかし執拗に出会いと別れを書いてきたこの小説が、主人公と彼女の関係を特別視してこれが永遠に続く本当の関係だなんていう安易なエンディングを許容するだろうか。そんなことはありえない。主人公と彼女もまた別れることになる、そしてそれがわかっているから彼女は永遠ならざる透明な水を見て泣いたのだ。
 こう書くと出会いが必ず別れを内包する、という悲しいが当たり前のことを書いた小説のようだけど、この小説はもう一段捻りがある。最後に昔の彼女と出会った後、主人公は「僕は君と別れて、別々の時間を過ごしてきたしこれからもずっとそうなのだろう[…]でもね、僕は思うんだ。僕の心の奥深くには湖のような場所があって、周りは猛獣だらけでやぶ蚊がブンブン飛んでいるかもしれないけれど、そこには君と過した時間の記憶が沈んでいるんだ[…]だから、僕は君とともにいるし、これからも君は僕に色々な影響を与え続けるのだろう。二人は別れることはできないんだ」と考える。捻ってみても当たり前のところにいるのだけど、なんとなく思っていることを物語にされるとはっとされられる。出会いと別れ、だけど記憶の中で生き続ける、たったこれだけのこと。たったこれだけのことなのに僕が感動したのは、僕がたったこれだけのことを当たり前にできていないからなんだと思う。


 「水が永遠に透明ではありえない」というテーマの方は古谷実シガテラ』がちょっと別の形で、深く書いていることなのだろう。僕たちは南雲さんのことが心配でならない。僕たちは日常に潜む狂気に(南雲さんが襲われることを)常に脅えている。主人公の荻野は幸せが永遠であるか否かという不安に自覚的だ、その点で彼は僕たちに近い。ただ僕たちと彼を決定的に隔てているのは当然、彼は登場人物であり僕たちは読者で、さらに『シガテラ』の採用している形式からして僕たちだけが彼女の危機に気付いているということだ。最初に「森の狼」が出てきたとき、僕たちは古谷の悪意が南雲さんに及ぶことを心底心配した。そのときは荻野くんも僕たちとその認識をある程度は共有していたけどね。しかし今回南雲さんがレイプされそうになったことは僕たちしか気付いていない。さらに、本当にレイプされてしまったのかどうかは僕たちにもわからない。レイプがなされたのかなされなかったのかが宙吊りにされたまま、突然また新しいストーリーがはじまった、そしてまた新たな南雲さんへの加害候補者が登場する。これから先あのレイプのことに言及されなければいいのに、と思う。であればこそ、僕たちは日常に潜む危険の恐怖を強く強く、本当に強く認識できるからだ。レイプされた/されなかったことがわかってしまったらショックを受けたり、安心したりすることで、その危機感が薄れてしまう。僕たちは不安の中にいないとダメなんだ。「森の狼」、「金造」、「弁当屋のバイト」、もっともっと不安をばら撒いて欲しい。マンガに対して「こうだったらなあ」なんて要求するのは子供じみていることを認識しつつもあえてそういう要求を出すならば、金造が最後のコマで交通事故にでもあって死んでくれればよかったのに、と思う。シガテラ、って食中毒の意味だったんだな、今調べて知ったけどなるほどと思った*1。ただいつもと同じように同じ店でお弁当を買って食べても、食中毒にあたる可能性は当然秘めているわけだから。


 いつか失われる水のその透明な状態、レイプされたか/されていないかわからない状態。そんな全くことなった2つの状態から僕は幸せの不安定さを教えられる。大崎善生古谷実も、良い小説家であり良いマンガであるのはこういう不安を喚起するストーリーを練るところもそうだけど、人物の造形がうまいからだよね。出会って別れてそれが寂しいと思えるのは出会った相手が素敵だからだし、レイプされて欲しくない幸せでいて欲しいって思えるのは南雲さんが死ぬほど可愛くて良い子だからだ。当たり前のことだけど登場人物の魅力あっての物語だなということも再認識した。


 追記:上に書いたようなことを主題にしてる作品なんて星の数ほどあるのだろうけど、魚喃キリコ南瓜とマヨネーズ』の最後の1ページを見てこの作品もこう言ったことにすごく自覚的な話なんだなと思った。