『熊の場所』 舞城王太郎

熊の場所 (講談社ノベルス)

熊の場所 (講談社ノベルス)

 舞城王太郎の短編集。「熊の場所」、「バット男」、「ピコーン」の3篇が収められてる。
 「熊の場所」は、「僕」が同級生のまー君による猫殺しに気づいてどうしようという話。「バット男」はバット男というキチガイに弱者という役割を押し付けるシステムについて、「ピコーン」はとても頭のいい女の子はその頭の良さを彼氏の浮気相手を探し出すことばかり使うことをやめて大学でも受けようとし、それを暴走族の彼氏に納得してもらうためにフェラチオ一万本だとかバカなことをいうんだけど、最終的にはとてもとても主観的なんだけど、愛が見られるというお話。「ピコーン」は推理小説的要素(とくに舞城に顕著な滑稽な見立て)を含む。
 「バット男」は、バット男の存在が、結局は不可避であることを匂わせる結末が、少し寂しい。佐藤友哉は、すべてを地獄の業火で焼き尽くすとまで言ったのに。無論、両方とも言葉だけであるのは当たり前だよ。ただ、言葉だけなんてことが当たり前なんだから、せめて言葉でだけは、バット男を作り出すシステムをぶち壊すべきなんだ。佐藤友哉の闘争的な小説を読んだ後だと、少し舞城の小説は文学的過ぎて、どうも好きになれない。愛を書くのはいい、だけど、システムを受け入れてどうするんだ。「熊の場所」はすごくよかった、熊の場所、というのは主人公の父親が、森で熊に襲われて一度は逃走したものの、そのままではいけないと思い(トラウマになることを自覚的に恐れ)、熊の場所へと引き返して熊と対峙し、退治したというエピソードによる。実際、引き返して熊に勝てるかどうかなんていうのはわからない。それでも僕たちは、そこへ戻るべきなんだ。主人公の同級生のまー君は猫を殺し、その尻尾を集め、さらには「僕」自身の命をも狙っている。まー君の心の闇は決してわからない、酒鬼薔薇聖斗の心の闇がわからないのと一緒でね。だからまー君がどうして猫を殺すのかなんてのはどうでもいい。まー君が、自らそれを克服しようとしたことだけに価値がある。
 それにしても、舞城の小説には奇妙な収集物が頻繁に登場する気がする。にきびの芯を集めていたり、今回みたいに猫の尻尾を集めていたり。髪の毛は一本自分の頭皮から抜けるだけで気持ち悪いものになるけど、それが集まったもの(排水溝を見るといい)の不気味さはかなりのものだ。それがにきびの芯になり、猫の尻尾になったとき、その不気味さは極めて強い。一体舞城はどうしてそんなものを書くのだろう。