『つめたいよるに』 江國香織

 本番で、という話はさすがに周りでは聞いたことがないのだけど、模試では相当数の人持っているだろう「やべー国語Iの方やっちゃったよ」経験。かく言う僕も経験がある。
 どうでもいい前置きだった、何年か前のセンター試験国語Iの小説に江國香織「デューク」が出題された。僕は当時江國香織を知らなかったんだけど、「センター試験中に泣いてしまいました」みたいな書き込みをネット上で見つけ、その書きこみで興味を持って江國香織『つめたいよるに』を買ったのを覚えてる。
 コウジさんの感想(id:kouji:20040809#p1)を読んで、久しぶりに『つめたいよるに』を読み返した。コウジさんの「イベントめかすことなく日常にうまく取り入れて」ってのはものすごく正確に僕の数年前の感想を言語化してくれているなあと思った。
 江國作品は『つめたいよるに』しか読んだことがなくて、その中では「とくべつな早朝」が好きなんだけど、これは恐らく、この本を読んだ時期に僕がテキストサイトに夢中だったことと無関係ではない。僕はネタ系のテキストサイトよりも、日常系テキストサイトが好きだった。そういうサイトの文章はだいたい「オチのようでないオチ」のついている文章で締めくくられていた、ちょっとオシャレなね。だから「俺は二人分のクリスマスの朝食を、ウエハースのカップに山盛りにした」という最後の一文は当時の僕の感覚にぴったりだったんだと思う。単なる日常だからこそ、オチのようではないオチによる区切りが必要なんだ。区切りは、大袈裟なものであってはいけないし、かといってナチュラル過ぎるものでもいけない。このバランス感覚がきっと江國香織は優れているんだと思う。見えないクライマックス。そういうところが好きなので「デューク」は、それが良い話だなあとは思えるし、ちょっと感動もできないことはないんだけど、少し違和感を感じる。犬は人間に生まれ変わらない。文字にしたらものすごく馬鹿馬鹿しくなったけど「犬は人間に生まれ変わらない」。こんな日常はないんだ。死んだ犬を少年に投影しているだけならいい、だから少年が犬の生まれ変わりのように見えた、それならいいんだ。しかし「僕もとても、愛していたよ」なんて言うのはやりすぎだ。日常を逸脱している。江國作品は、日常の中で留まっていなければならなかったのに、この暴露によって日常を超えたラブストーリーになってる。他の作品を読んだあとで、「デューク」にだけ違和感を感じたのはそれが原因なんだろうな。