「村上春樹の「風景」」(『終焉をめぐって』所収) 柄谷行人

終焉をめぐって (講談社学術文庫)

終焉をめぐって (講談社学術文庫)

 ロマン的なイロニーは全てを醒めた視線で見つめることで自らの優位を確保する。『1973年のピンボール』から『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』までの作品にほとんど固有名が出てこないこと(「直子」だけが特別な意味を持つ)を手がかりに書かれた村上春樹論。村上春樹の主人公は何も判断しないし主張しないにもかかわらず、趣味判断はいたるところで行われている。あらゆる判断をこの趣味判断に従属させてしまうカント的な村上春樹の「僕」は超越論的な主観であるとするところが柄谷の村上春樹論の目新しい所で、村上春樹の「僕」は極めて経験的な主観であって、私小説的だという一般的な理解を退ける(ここで国木田独歩が同様の誤解に晒されているものとして引き合いに出されている、また村上春樹における固有名の氾濫を今日的なしゃれた風景として、さらに言えば消費主義社会の受け入れのようなものとして受け取る態度を否定する、この辺のポスト・春樹系作家への批判は冷たいというよりも憐れみに満ちてすらいるように思う)。また柄谷は村上春樹が特定の日付が持つ意味に対して知らないふりをすることで、その日付を脱臼させてしまうという。このような村上春樹に潜むイロニーは露骨な書かれ方をしていることが多いので、おそらく読者が理解しているところではあるけど、柄谷はこのような日付(そして風景としての固有名)の過剰による空無化の果てに、特権的な名前への固執を認める。
 まあそれはさておき、このような超越論的主観によって選び取られた風景によって構成された世界が肥大化しきったものが『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で書かれている。この論考中に引用されている部分でも明らかなように、村上春樹に特異なのはそのような超越論的な自己の産物である世界に対する責任であり、「一切が戯れであるとともに、一切が真剣なのだ」。それはピンボールマシンに対する偏愛なんかとも同じことだといえる。
 しかしそのような世界に固有名は回帰してくる。「直子」、この名前は特権的な立場を与えられているのだ。『探求』シリーズでもあきらかなように柄谷にとって固有名とは他者性を担保し、世界の外部性を示す重要なものだ。ラッセルは固有名を確定記述=一般概念の中に解消しようとしたが、それは村上春樹の世界において固有名が消されていることと平行している、すなわち村上春樹の世界は徹底的に(しかし完全なものではない、というのが大事なところだけど)任意的なものだ。そのような被限定的現実から逃亡するロマン派的な、村上春樹の試みの失敗を最初から宣告していたものとして「直子」が存在する。

 そのような固有名の回帰はある事物の単独性を保証するものとしてあるわけで、「他ならぬ君」を成り立たせるものだ。大学生らしく「適当」に女の子とデートをしたりセックスをしたり、そういう表面的な村上春樹的生活も悪くはないけど(そういう女の子の名前は本当に覚えてない)、やはり任意の女の子ではなくて、「他ならぬ君」が固有名をもって回帰してきたときにそういう世界は崩壊してしまう、もちろん僕は責任をとってそれと心中するなんてことはしないし、ロマン的イロニーからイロニーだけを取っ払ってロマンスな生活を送るけどね(ただそれを真面目にやったらやっぱり柄谷が言うようにイロニーなんだろうけど)。