『鏡姉妹の飛ぶ教室』 佐藤友哉

鏡姉妹の飛ぶ教室 (講談社ノベルス)

鏡姉妹の飛ぶ教室 (講談社ノベルス)

 この小説はとてもわかりやすい。今までのシリーズでも「弱者」についてだとか「強者」についてだとか書かれていたけれども、今回は学校が、しかも危機的状況にある学校が舞台ということもあって「弱者」と「強者」という対立が明確に打ち出されている。いや、明確に打ち出しやすいシチュエーションをユヤタンが採用したと言った方が正しいだろう。教室内におけるヒエラルキーというのは極めて強くその内部の人間に作用する。僕も中高と教室の中では色々と胃を痛めた記憶がある。この小説の中では強者/弱者というように明確に二分されていたけど、実際の教室にはそんな明確な区別は存在しない。
 中高生当時からエヴァやらガンダムやら銀英伝にはまっていたにもかかわらず、それをひた隠しにし、むしろおたくのクラスメイト達を叩くことで僕はこの小説で言うところの「強者」の位置にいたと思う。そんな僕が強者だったと言えるだろうか。黒い皮膚の上に白い仮面をつけ、自分を誤魔化していただけだ。まあユヤタンの区分は基本的には、正しい。確かに勉強ができる、運動ができる、家がお金持ち、こう言った人間は基本的には「強者」の地位を占めていることが多い。だけどそれが単純にその地位にいるわけではない。『エナメルを塗った魂の比重』では教室内闘争における「強者」の位置が葛藤も交えて面白く書かれていたのでユヤタン自身も今回の小説における区別が単純過ぎることには自覚的だとは思う、それではなぜ、ここまで単純化した対立を必要としたのか。
 要するに、ユヤタンは「強者」のことなんてどうでもいいから、だ。「弱者」である皆に「本気を出して頑張って」欲しいから。きっとユヤタン自身が「弱者」だったんだろうと思う。「子供たち怒る怒る怒る」でも「弱者」が主役だった。ユヤタンは教室の中だろうが国家規模だろうが、あらゆる意味での「弱者」の味方なんだ。ちょっと頼りない味方だし、ユヤタン自身、本気で頑張ったからどうにかなるって完璧に信じてるわけじゃなさそうだけど、それでもとりあえず(だけど本気で)頑張って欲しいんだと思う。もしかしたら、ユヤタンが少しずつ自信をつけてきているから、そういうメッセージを発することができるようになってきたのかな。ユヤタンは本気で小説を書いているなあと思う、いつもはトリックスターの祁答院姉弟まで本気で頑張ってたもんね!あ、あとラストが酷いって言ってる人は『フリッカー式』とかのことをもう一度よく考えてみるとよいかもしれない。僕の読み方が正しいかどうかはわからないけど…。
 その他、初瀬川研究所とか裏財閥とか、ちょっとその辺は「戯言シリーズ」ぽい、『ネコソギラジカル』は面白くなかったので書くことない。