ずいぶん遠くまで

 いつの間にか半年も経っていたけど、やってることは変わりません。相変わらずニコニコ動画を見る日々。

 「魔理沙は大変なものを盗んでいきました」にハマってから、実際に東方シリーズをプレイする様になるまでの道のりは険しいものだった。ニコニコ動画にはありとあらゆるものがばら撒かれているけど、それらのうちのたった1つの動画でもフックになれば、そこから世界は広がっていく。連想ゲームの様に動画の要素から広がる世界もあれば、ランキングからランダムに動画を選び、そこから他の動画群へと渡り歩いていってもいい。はてなダイアリーのキーワード程には統制されていないニコニコ動画のタグの機能の力を僕たちはもう少し信じてもいいだろう。昔のインターネットはこんなにも窮屈じゃなかった気がするんだけど、そんな時代のことを少しだけ思い出させてくれるような気もする。

 僕が最近ニコニコ動画でよく観ているのは「実況」シリーズ。その中でも今や有名な「ゆとりの友人にFF4を無理やり実況させてみた」シリーズは本当に素晴らしい作品だと思う。特に終盤で、必死にラストバトル向けの戦略を練りながらラストダンジョンを往くシーンは感動的としか言いようがない。それが正解か否かは別として、ここまでゲームと向かい合う経験を少なくとも僕はもう久しくしなくなってしまったし、おそらくそういう人はたくさんいるだろう。彼らの奇抜な発言も、ゲーム内のキャラクターへと向けられた愛であればこそ、共に見る僕たちは気持ちよく笑うこともできる。そしてそんな彼らに長時間寄り添うことで、取り戻されるものがある。
 他にもhacchiさんの実況シリーズにも同種の感動を覚えることができる。ゆとりシリーズの彼らのギャグや仄かに見える友情、hacchiさんの声の良さや編集能力の高さ、絵の巧さなど、どこが好きかと言われればそのように答えることもできるけど、何よりもやはり、彼らの真摯さにこそ打たれているのだと思う。

I Hate Perfume

 ずっと欲しかったI Hate Perfumeの香水を買った。結構前に何かの雑誌でチラっと見ただけなのが気になってたんだけど、モヤモヤが我慢できなくなったので適当に海外のサイト探して通販で購入。どれにしようかとても悩んだんだけど、"At The Beach 1966"、"WINTER 1972"、"in the LIBRARY"の3本にした。
 まだ"WINTER"に関してはまだピンときてないんだけど、"Beach"と"LIBRARY"に関してはとても面白い匂いだった。"Beach"は海の潮の匂いだとかそういう匂いではなくて、日焼け止めや濡れた砂、貝殻に流木、さらには海岸の板敷き道なんかがベースになってるらしい。海の匂いではなくて、ビーチの匂いという辺りがミソなんだろう。個人的な経験を共有するのは難しいけど、この香水は経験の一般化と、さらにそこから自分に固有な思い出なんかにまで連想させることにある程度成功しているように思う。なんてちょっと大袈裟に書きすぎた笑 "LIBRARY"の方は、図書館というよりは古本屋という印象を受ける。サイトの解説にもあるように作られた年代や、材質によって本の匂いは変わってくるけど、この匂いは少し黴くさい、甘ったるい匂いがする。こういう匂いがする古本屋ってある気がするよ、うん。やー面白いおもちゃを手に入れた感じで、代わる代わるシュッシュしては楽しんでいます。
 皆で色々自分が面白そうだと思ったやつを買って持ち寄って遊んだりしてみたいなー。

実に

 正月からマンガ喫茶に入り浸っていた、そこで勝手に広がっていた連想なんかを書き付けておこうと思う。

 『シガテラ』が世界の嫌な部分を可能性として描いていたとしたら、花沢健吾ボーイズ・オン・ザ・ラン』は5巻までで世界の嫌な部分を現実として描き出している。『シガテラ』を読んで僕はその可能性を見つめ恐怖するが、『ボーイズ・オン・ザ・ラン』を読んで現実(あるいは現実っぽさ、とでも言うべきなのか)を思い出さされた僕は、本当にとても嫌な気分になる。こんな話はそこら辺に転がっているし、もしかしたら自分も当事者のポジションにいるのかもしれない。

 相田裕GUNSLINGER GIRL』はイタリアを舞台として主に治安当局と過激派の闘いを描いたマンガである。政府は「社会福祉公社」という公益法人を隠れ蓑としてダーティーな工作活動を行っている。公社では身体障害を持つ子供(現在のところ全て少女)への薬物投与による「条件付け」や、身体能力の強化のための義体化が行われ、彼女らを優秀な工作員として育てている。彼女らは「条件付け」によって「担当官」と呼称されるパートナーへの絶対服従を刷り込まれている。彼女らは担当官と2人1組になって行動し、そのペアは「フラテッロ=兄妹」と呼ばれている。彼女らに対する接し方は担当官毎に差異が見られ、厳しい態度を見せる者もいれば恋人のように振舞う者もいるし、また距離の取り方に悩む者もいる。
 投薬と義体化に伴って彼女らの寿命は極端に短くなっている、という設定があるものの、その強力な活動を見ればほとんど不死のような印象を受けてしまう。しかしながら記憶の錯乱を起こし最終的には脳死してしまうアンジェリカによって彼女らが死ぬ存在であること、というよりは死に近い存在であることを改めて認識することになる。
 で、このシーンで思い出したのが『F.S.S.』でインタシティが死ぬシーンだったというだけ。当然騎士とファティマの関係を念頭にガンスリも読んでいたけど(ジャンはフィルモアっぽいなあとか)、ファティマも彼女らもそういや死ぬんだったなと。500年弱生きたインタシティと数年で死んだアンジェリカを比較するのも変だけどさ。えっと、そんだけ。

 今年はとても寂しいことがあった一方で少し良いことがたくさんあった。んー、ツリー型の人付き合いからリゾーム型の人付き合いになりました、それにしてもこんなベタな比喩を使ってしまっていいのか笑 実際はとても好きだった女の子にふられてしまい、はじけた生活を送っているというだけ。
 最近は時間の流れがとても速くて、寂しかったことすら吹き飛ばされてしまいそうなので、せめてそれは忘れないようにしないと。それにしてもこうもあっという間に1年が過ぎてしまうと、ちょっと勢いがつきすぎて時には老後のことにすら思いを巡らせてしまう。2ヶ月前*1日仏学院で観た『ジル・ドゥルーズによるアベセデール』のMでドゥルーズ老いること自体は悪いことではない、なんて言ってたっけ。老いという言葉にぴったりと貼り付いている貧困や痛みという言葉、これらは別問題だとドゥルーズは言う。確かに老いそのものを切り離してみたときに時間の余裕やそれに伴う自由の獲得は悪いものではないかもしれない。老いてすることが何もないなんていう日本人は傲慢だ、とも言っていた。時間だけが有り余ってたら僕も楽しい老後を過ごせるだろうし、結構楽しい想像を展開できたりする…書斎がある家に住んで日がな一日本を読んで過ごしたり、旅行に出かけたり…。だけど貧困や痛みが低くない確率で附随してしまう現実がある以上、やっぱりそんな想像は結構な確率で妄想にしか過ぎなくて、別の未来の僕は汚いアパートで孤独にテレビなんかを眺めてたりなんかもする。老い単独で考えるなんてのはやっぱり少し現実的じゃなくて、悪いものが附随する蓋然性が高い以上はそこを見つめないとダメだね。こんなことを言っていたドゥルーズにだって病は手を伸ばしてきたわけだし。えっと、何が話したかったのかよくわからなくなった。『アベセデール』はとても面白かったんだけど、老いがどうとか医者が嫌いだとかなんだとかエッセイぽい面白さがあった。もちろんそこにドゥルーズ固有の思考の破片を見出す人もいるんだろうけど、僕にはそれが出来なくて、繰り返しになるけど面白いエッセイを読んでいるような、そんな体験だった。今思い出せるのってドゥルーズの微弱な息や心音に計器が反応しなくて、それに医者が苛立つのが面白いだとか、医学と医者の権力を憎む→階級闘争!だとか、あと好物の脳/舌/骨髄を父/精霊/子に重ねていたり、って思い出せるまま書き出してみたけど、やなおっさんだなあ笑。

 寂しいことはあったけど、鎌倉に行ったり、海芝浦に行ったり…素敵なことも確かにあった。お付き合いしている人の誕生日ですら怪しくて、記念日なんて概念は勿論なく、ましてや遊んだのが何月何日のことだったのかはおろか、何月のことだったのか、季節がいつだったのかすら覚えていない僕にとって本当にはてなダイアリーは便利。日付を微分していった先に炸裂するクラッカーによる混乱を生み出す漫画を読んだけど、僕の日付感覚は積分されきってる*2。色々あって良い1年だったのかもね、とも思える。来年はもうちょっとガツガツした生き方をしてみたい、例えば「できる男」を目指してみたり!けど本屋で社会人向けの「できる男」を目指す本を見るとやっぱり鼻で笑ってしまうんだよね。

*1:そういえばもう2ヶ月も前か、素敵な本のお礼と感想を言おう言おうと思いながら言えないまま年末になってしまった。相変わらず僕は楽しかったのだけど、あまりゆっくりできなかったのが残念。来年はカラオケ行こうねカラオケ。

*2:確かに大傑作でした。個人的には法則を見つけようとする陰謀論者な彼の出てくる話がとても好きでした。11万年に1回の奇跡。

職場

 神戸映画資料館に「70年代の釜ヶ崎《三本立て》」特集を観に行く。

  • 1.「釜ヶ崎解放」(日本/34分/16mm)
  • 2.「1973〜1974 釜ヶ崎越冬闘争 冬の陣」(日本/23分/16mm)
  • 3.「暴力手配師追放 釜共斗の戦い」(日本/38分/16mm)

 釜ヶ崎というのは東京でいうと山谷みたいなところで、まあ要するにドヤ街。僕の会社のお取引先のうちいくつかはこの周辺にあって、たまに釜ヶ崎の方に来ることもあるけど、スーツを着てるだけで浮いてしまうようなところ。まあ詳しくはこちら
 1本目と2本目はヴァリエーション違いと言った感じでほとんど大差ない。仲間から死者を出すな、を合言葉に仕事もなく厳しい冬を乗り切ろうとする闘いの様相が撮られている。言葉では伝えづらいんだけど、本当に普通の日雇い労働者が集まってデモなんかしてる映像は何だか少し変な感じがする。越冬闘争において野戦病院が設置されていたり、演説や炊き出しが行われる広場のような所には「人民が天下をとった国 中国・朝鮮の本を読もう」なんてライブラリーが置かれている。そして、その横でおっちゃんが炊き出しを食べながら新聞(イメージ的にはスポニチ)を読んでたり、あとは「アイヌ共和国独立万歳!」と言った落書きと並列して書かれる「ポリ公殺すぞ」の文字とか。自分たちが建てた大阪市の施設にとデモをかけ、自分たちが建てた建物に入れずにその前で「仕事をもってこい!」と声を上げるという少し喜劇的だけど生死に関わる運動。それでも労働者の顔はどこか少し、頼りない、運動から阻害されているような気がした。「くすぶっているだけではダメなんです!」と声を荒げるリーダー風の男/座って炊き出しを食べながら新聞を読む労働者、という映像が意図してか意図せずか映し出されていたのが印象に残っているからだろうか。日焼けした顔や汚れた服によってフィルムを通じて煤けたようなイメージを受ける映像だったけど、その中で、餅つきの臼の中の餅の白さや人民パトロール隊が救出した病人に飲ませる牛乳の白さがとても映えていた。その白さと特徴ある労働者の顔が1週間たった今でも記憶に残っている。
 3本目の「暴力手配師追放 釜共斗の戦い」では、空手が武器を持った軍・警察に素手で対抗するための武器であることが神話的に語られ、暴力手配師のバックにはヤクザ、そのバックには西成警察そしてそのバックには警視庁…という陰謀論的な構図とベトナム戦争ベトナム労働者が帝国主義を打倒したという歴史観が示される。空手と西成警察についてはともかく、警視庁と帝国主義のことなんてきっと労働者にとってはどうでもいいはずで、何よりもまず要求されているのは正常な労働環境だ。マクロな視点が放棄されなければならない地点というのはきっとあるはずで、そして釜ヶ崎はそういうところだと思う。アイヌ共和国、人民の国中国・朝鮮、警視庁、帝国主義…よりも、まず仕事があって暴力手配師が追放されればそれでいい。西成警察署員も警視総監もきっと「ポリ公」であることには変わりないんだろうけどね。

 他にも神戸映画資料館では先月にアンセルモ・デュアルテ『サンタバルバラの誓い』も観た。2つの法が入り組んでしまったことによる喜劇。

 あとプロフィールでバトンやってみました。

麻雀だけが

このEカードは、まじりっけなしで本当の意味で心と心の会話なのだ。この会話の純粋さ真実さに比べれば、日常での友との会話など、全部嘘ばかりだ。このEカードは違う。言葉一つ発せずとも真剣だ。ギャンブルこそ国籍・年齢・貧富の差・性別。そういうあらゆる垣根をあっさり乗り越え語り合える。共通の言語なのだ

 ここ最近、いつも読んでいるブログの記事で片山まさゆきが取り上げられていて、僕も久しぶりに読みたくなり家にあるマージャン漫画を読み返していた。『哭きの竜』、『むこうぶち』、『ノーマーク爆牌党』、『牌賊!オカルティ』、『バード 砂漠の勝負師』、そして『リスキーエッジ』と福本作品。こう色々読んでみると、麻雀の本質に迫る漫画としては片山まさゆきのそれが出色のものであると思わされる。『ノーマーク爆牌党』における「爆牌」ならびに『牌賊!オカルティ』における「バカルト」は、対戦相手が本来他者であるという当然の事実を我々に思い出させてくれる。『牌賊!オカルティ』はデジタルクルーズのリーダー梨積港の挫折の物語として読むことができるだろう。彼の目的とは対局者全員がデジタルな麻雀を打つことによって、他者が排除された空間を作り出し、その場におけるデジタル思考の優位でもって頂点に君臨しようというものだ。しかし眉椿のバカルト、朧のバカ、群鴎のオカルトという異物、他者の侵入によって彼の野望は打倒される。また『ノーマーク爆牌党』では、登場人物にとってはもちろん、我々にも、そして作者によってすらも近寄りがたい他者たる爆岡を前にしてそれでも尚、彼を理解しようとするほとんど涙ぐましい努力がなされることになる。鉄壁が一人牌を並べて爆岡の秘密を暴こうと努力する様をこそ、真の意味でのコミュニケーションと呼ぶべきだろう。ネット麻雀がつまらないというのはお金がかかっていないからではなく、未だ我々の想像力がモニタを越えては機能しないという事実を示しているにすぎない。ネット麻雀でなくても、巷の麻雀でなされる会話だって、そして僕の発する言葉、打つ牌も全て嘘ばかりだ。分かり合うことの不可能性を前に、それでも尚、会話を。

 利根川先生はイカサマをしていたけどまあ良いことは言ってるよね。ちなみにマージャン漫画においてイカサマをしていてなお、「心と心の会話」がなされるマンガとして『バード 砂漠の魔術師』を挙げることができる。全自動卓における天和という不可能を巡ってなされる麻雀対決。

Urban Flotsam

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Parasite Paradise: A Manifesto for Temporary Architecture and Flexible Urbanism

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Pro Domo

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Sins and Other Spatial Relatives

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 10+1の海外出版書評を読んでたらなんか色々欲しくなってきて関係ないものまでたくさん購入。ついでに電子辞書も。あとL'Atelier des Tuileries のノートを。給料使い切らないとなんか満足できないので毎回使い切ってその上にカードを切ってるから常に残高はマイナスです。