だけど、また本を最初から読みはじめれば、みんな帰ってくるんだよ。ゴロも獣人も

 (近頃火種の)Perfumeの「エレクトロ・ワールド」を狂ったようにリピートで聴いてる。最近各所でPerfumeの固有性を論点として議論が展開されていた。たしかに、この曲を巷に溢れるたくさんの曲から差異化する点を見出すのは難しい。だけど「エレクトロ・ワールド」はその薄っぺらさが逆説的に強く機能するような歌詞を伴っている。「エレクトロ・ワールド」では電子的な世界のリアリティの無さがノリだけはいいけど平板な曲に乗せられた匿名的なヴォーカルによって歌われる。ヴォーカルの代替可能性を指摘し、何を愛しているのか?と問う態度は音楽に対してとても真摯なものだけど、そのヴォーカルの代替可能性はこの曲にとっては必要条件だ。それでこそリアリティのないエレクトロ・ワールドを歌うことができるんだから。この曲は文字通りにとても平板で、それは匿名的なヴォーカルと共にここで歌われるリアリティのないエレクトロワールド、ついには消え去ってしまう世界にべったりと寄り添っている。
 さて、この曲が持つ魅力はそれだけによるものではない。冒頭に引用したのはいつだったかのエントリでも書いたジーン・ウルフの小説「デス博士の島その他の物語」の一節で、主人公の少年が作中作の本を読了することを拒否した場面で、作中作中のデス博士という人物が主人公に言うセリフ。本を読み終わる、音楽を聴き終わるという体験は、1つの世界が終わってしまうということを意味する、だけどデス博士の言うとおり僕らは本をもう1度開くことや、再生ボタンをもう1回押すだけでただちにその世界を新たに呼び戻すことができる。そしてそういう性格とこの曲はとても親和性が高い。

あああ もうすぐ 消える エレクトロワールド

 消え去ったエレクトロワールドは、リピート機能によってほんの数秒後に違和感を感じさせることなく立ち上がる。1つの世界が崩壊してまた立ち上がってしまうというその安っぽさ。ちょっと苦笑いの1つも浮かべたくなるけど、その安っぽさこそが中毒性の源になってる気がする。あー今日も働いてる時以外はずっとエアーマンが倒せない魔理沙とエレクトロ・ワールド聴いてたな。

 はてなスターだっけ、あれ自分のエントリでついクリックしたら消せなくて死ぬほど恥ずかしい。
 
 今日は京都に行ってきた。Meets RegionalとSAVVYを見ながらチョイスした甘いもんと美味しそうなもんを巡る旅。京阪神エルマガジン社の掌で踊ってる感は否めないけど、それでも十分に満足できる小旅行だった。
 まず「やよい」って店でじゃこパスタを食べる。八坂神社の近くのお店。ブロッコリーとクリームソースを絡めたパスタ、おじゃこのバランスがとてもいい。クリームソースのパスタっていつも最後の方でもたれて来て辛くなるんだけど、この店のじゃこパスタはちょっと薄めのソースになってる上に、おじゃこのわずかなしょっぱさが効いてごちそうさままで気持ちよくいただけました。まあ少しもったり感が足りないっていうとこはあるけど、それはわがままだよね。次にすぐ近くの「洛匠」で草わらび餅。本当は本で見た黒糖わらび餅が食べたかったんだけど、これはなんか不定期でしか作られないらしく今日はメニューに載ってなかった。いずれリベンジしたい。その後京都国立近美を経由してその近くのタルト屋さん「ラ・ヴァチュール」。ぷるんぷるんだけど際どいラインで崩れずに生地の上に座っているりんごさんの飴色がなんと美しいこと。2人で行っても1つしか注文できないらしく(『ツレのための京都ガイドブック』っていう本に書いてあったので2人で1つ頼んだ。蛇足だけど関西でツレって言ったら友達のこと、残念)、1つだけ注文したんだけど、1口手をつけてからほとんど無言であっという間に食べ切ってしまった。当然陣取りゲームも発生し、24歳にもなって人間の醜い部分を露呈するはめに。それにしてもこれはうまかった。りんごの甘さがこれほどまでとは。りんごの甘さだから食後の感触もとても気持ち良い。月に1度くらいは食べに行きたい。1人で食べちゃうと満足してしまいそうだから、少し物足りなくてまた来たい、と思うためにも2人でくるのがオススメ。そのあと恵文社行ってまた引き返して最後に親へのお土産に「きよす」というお店で漬物寿司を購入し、京都駅までダッシュ。ここまで全部自転車で移動、足、マジパンパン。京都ツアーは京都駅前で自転車借りるのがオススメ、1000円強で変則ギアつきの乗り心地のよい自転車がレンタルできる。それにしても日曜日がこんなにも素敵だと、月曜日が辛い。月曜日から木曜日まで平日は連続殺人にでも遭えばいいのに。金曜日はまあ許してやってもいい。今親が少しだけ残した漬物寿司食べてるけど、お漬物でご飯食べるまさにあの感じ笑、コンビニエントだなあ、これ。

 去年から今年にかけて雑食的に色々観てるんだけど印象に残ってるものというと(良し悪しは別にして)それは少なくて、せめて今覚えているものだけでも本の背表紙に似た機能を果たしてくれることを願ってメモしておこう(あ、キーワードリンクの編集とかできるのか、これが嫌でというか申し訳なくて自分用メモを作るのも躊躇っていたのに)。それにしても最近観た短編に偏ってるあたり僕の記憶力はゴミみたいな感じですよー!That's a problem everyday!マンガバージョンもそのうち。ちなみにサシャ・ヴァルツ観に行ったり、world's end girlfriendの出るイベントに行ったりもしたけど、どっちもイマイチだった。サシャについては僕の経験不足があるんだろうけど、wegに関して言えば僕が魅力だと考えてる部分がライブにおいては少し崩れてしまっている気がする。その話はまたいつか。

光、あれ/だれ、あのおっさん。

 河瀬直美の『かたつもり』は端的に言って感動的だった(映画を観て泣いたのは初めて)。どんなに面白い映画でもどこかで「あと何分だろう」とか思ってしまうんだけど、この作品に関して言えば本当に終わるのが悲しかった。作品が画面と共に時間をも切り取って成立しているものだという当たり前のことを悲しみと共に教えてくれた。河瀬を棄てた父母に代わって河瀬を育てた養母を撮ったドキュメンタリー。くどいほど養母へのクローズアップがくりかえされ、そのショットの時間も相当長い。そして、おばあちゃんの「もうええでっしゃろ」とカメラを嫌気するセリフが何度も繰り返される。
 この作品を見ている限り2人の関係は極めて良好であるが、河瀬とおばあちゃんの関係はカメラを介することで、やっとこのような親密さを得られたらしい*1。実際、河瀬がおばあちゃんの前で普段は笑顔を見せないことに対しておばあちゃんが不満を示し、それに対して「(私は)かわいくないねん」と河瀬が拗ね、さらにおばあちゃんが頑固に「(河瀬が)かわいいねん」と言い続けるというよくわからない喧嘩に発展してしまい、そういう作品外の部分が侵入してくるシーンがある(これが『かたつもり』でのことだったのか、それともおばあちゃんとの3部作の最後をなす『陽は傾ぶき』でのことだったのか記憶が曖昧になっている)。おばあちゃんと河瀬の愛は確かにあるのだろうが、それがぎくしゃくしたものであり、カメラによってスムーズな関係がフィクショナルに構成されているのかもしれない。透明なカメラではなくて物理的なカメラが存在することによって成立する物語。
 おばあちゃんはカメラに対して実によく興味を示す。近所のおじさんはカメラに対して節度ある態度を持って距離を取るのに対して、カメラに対して剥き出しの興味を示してくるのは近所の子供、犬、そしておばあちゃんだ。最大限のアップでおばあちゃんが撮られたその時、おばあちゃんは「この中どないなってんねんやろ」とカメラのレンズを覗き込む。映画館で観ていたから、ということもあるのだろうけどまるで僕たちがカメラの中からおばあちゃんを覗いていて、それがバレてしまったかのような気分になる印象的なシーン。また、カメラを介しての距離感がとても面白い形で-おばあちゃんが河瀬のために作ったスキヤキを措いてやはりおばあちゃんを撮りつづけている河瀬に対しおばあちゃんが「(鍋で)やけどしまっせ」と声を掛けることで-示されるという面白いシーンもあった。
 さて、カメラを介してのおばあちゃんと河瀬のコミュニケーションであるが、その距離が侵犯される感動的なシーンがある。ガラス越しにおばあちゃんを観ながら河瀬はその像を指で撫でる。その迷いのあるような繊細な動きの指が、その後のシーンでカメラを越えて物理的におばあちゃんの顔を撫でてしまう。これはほとんど反則だ。衝動的にカメラを越えてしまったのだろうか。先ほどのガラス、カメラのレンズ、そして(僕らにとってのバリケードとなる)スクリーン、幾重にも守られていたはずのおばあちゃんはついに河瀬との物理的接触を果たしてしまう。使徒リリスの物理的接触*2なんて目じゃない。撮影者の特権、愛を持つものの特権が河瀬にそれを許すのか。

*1:河瀬へのインタビューを何かで読んだ、なんだっけかなあ

*2:早く劇場版観たい

say...

工場萌えな日々 [DVD]

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 誤解されそうだから書いておくけど、僕はこういうものは(買いこそすれ)好きになれない。萌え対象だなんて言語道断な話。萌えることを否定してるわけではなくて、誰もが一様に萌えることを想定してこういう商品が売り出されて、そしてなおかつそれなりのポピュラリティを得ていることがどうしても僕には理解できない。かと言って別に純粋に工場を愛しているから萌えなんて許さない、とかそういう話でもなくって、えーと、なんというか経験の特権化という誘惑に抗しきれなかっただけですごめんなさい。

物体


 NAMURA ART MEETING '04-'34 vol.02「起程I」に行ってきた。23時前に着いたんだけど、辺りの製鋼所やらの工場群はまだ光を放っててそれが金属に反射して美しい光景。近くまで行ってみたいねなんて友達と話しながら敷地内でお酒を飲んだり煙草を吸ったりしながらだらだら近況報告会。お目当てのクラブイベントが始まったからダラダラと会場に行ってみる、トトロのリミックスがかっこよかった。この時は意外とテンションが高くてはしゃいでたんだけどだんだん疲れてくる。お目当てのレイ・ハラカミタイムがやってきたときにはほとんど元気がなくて座り込んでた、もうあと一歩で寝る寸前のところを彷徨う(眠いときに聴くハラカミさんはそりゃあとても効くよね、逆方向に)。
 んで、ふとさっき行ってた工場へ本気で行きたくなったので友達と連れ立って眠気を振り払い会場の外へ。あてもなく2,30分無人の小規模工場街をドリフト。すれ違うのは野良犬くらい、立ち止まって睨んでくるところがちょっとサマになってた。「俺たちとあの野良犬、一体どこが違うっていうんだろうな」とか適当にハードボイルドなことを言ってみるも友人には失笑されて終わり、残念。
 ドリフト中、王兵の『鉄西区』のことを思い出したりする。実は第3部しか観てないんだけどこういう小規模の工場なんかを見てると勝手に労働者の生活なんかを想像しちゃう、いや、本当に余計なお世話だけどさ。あの映画も、薄暗い中を走る鉄道とか、雪の映像が時々とても美しいんだけど、そこで映し出される生活はとても悲惨。もちろん、とてもとても小さくて汚い部屋に押し込められるように置かれたベッドの上でそれまで無表情で反応も示さなかった子から父への愛が涙と共に曝されることで、悲惨さ以外のものもあることをカメラが映し出していることを忘れているわけではない。悲惨さは悲惨さとしてそれは確かに存在するし、それこそが主要な問題点なんだろうけど、それとは別に、ここにも(こういってよければ)愛があるんだということは忘れちゃだめだ。退屈さを抱きしめながら捨象しない勇気が見せるもの。
 それはさておき、適当に見つけた入りやすそうな工場の中に入ってみる。辺りを見渡せそうなポイントを求めて駐車場らしき坂を上る。そこから見えた非人間的なスケールのクレーン、金属で組み上げられた構造体、微かに光を反射する黒く小さい川。同じ光景を太陽の下で見たってきっとそんな存在感はないだろう、今更だけど夜の力はすごい。伊達に恥ずかしい手紙を書かせたりする力を持ってるだけのことはある。意味も機能も剥がれ落ちた光景は非現実的で、夢だったと言われたらそうだったのかもしれないと納得してしまいそうな気がする。帰ってきて会場前で売ってたホットドッグ*1を食べる。全米一のソーセージを使ってるらしい、それはそれとして美味しかった。冷たいお茶とホットドッグのマスタードで現実におかえりなさい。


 写真は、2日目にピアノ演奏やら対談やらを聴きに言ったときに会場近くで撮った工場。夜だから気づかなかったけどなにもこんなに可愛くしなくてもね、けどやっぱりちょっと好きかも。

*1:id:ryu46:20070902さんの日記にまさにそのホットドッグ屋さんの写真が!不躾なリンクでごめんなさい。

真実

「(…)私は、私が見える世界を皆に見せるための機械だ」
「ジガ・ヴェルトフ。映画監督だったかしら」
「イエス。僕は僕だけがたまたま知りえた情報の確認と伝播を、自身の使命と錯覚し奔走した」

 プラネット+1でジガ・ヴェルトフ『カメラを持った男』を観る。カメラを持った男がモスクワを撮って回る、という宣伝映画。というだけではなくて、カメラを持った男/カメラ/映画という3つの要素が主役の座を争っているような自己言及的な映画だった。カメラを持った男が、モスクワを撮って回るシーンを撮るカメラの非存在。瞬きする女、光を招きそして閉ざす動作を繰り返すブラインド、そしてその明滅にシンクロするカメラアイ。傾いた姿勢から煙突(?)を見上げる男と、その姿勢に同一化したかのように傾いた映像を写すカメラ。映し出されたフィルムのコマとそしてそのコマが動き出して映像となる瞬間。そして最後に、映像にモンタージュされる男の目。

 男が持ったカメラが撮った映像の背後には、男が持つカメラの存在があるし、そのカメラを持った男を撮った映像の背後には、非人称的なカメラの存在が浮かび上がる。もちろん、それを浮かび上がらせているのはジガ・ヴェルトフの作為によるものだろう。物理的な存在としてのフィルムとカメラ、そして映像がそのフィルムのコマの連続によって成立しているということに意識を向けさせる映画だった。カメラアイと撮影者の目の同一化を信じていながら、フィルムというメディウム、そしてそれが映像になる仕組みに対しては注意深く向けられる目線。

 「世界を皆に見せる機械」の仕組みを詳らかにしてみせるその所作にシンプルな感動を覚えながら、そしてほとんどの映像の背後にカメラの存在を意識しない自分のことを思いながら(勿論、素子とアオイくんの会話に引っ張られて。そもそもジガ・ヴェルトフを見に行こうと思ったきっかけはこの会話に登場してたからという恥ずかしい理由だったりする)、プラネット+1の下にあるカフェ太陽ノ塔でコーヒー。お供は米沢嘉博『戦後少女マンガ史』。最近、何を書くのも怖い気がする。というわけで最近読んで面白かったマンガなどもいくつかあるんだけど僕のちっぽけな勇気じゃ今は映画1本が精一杯。ってまああの一輪の花程の価値があると思っているわけではないです。

お久しぶりです

笙野頼子三冠小説集 (河出文庫)

笙野頼子三冠小説集 (河出文庫)



 最近は就職先の研修とか支店での歓迎会とか無為なことに忙殺されてた。正直、同期の人たちとは少し馬が合わないし、仕事も興味のある仕事ってわけじゃないけどまあ辞めるわけにもいかないのであと何十年間かこんな感じでだらだら働いて死んでいこうと思ってます。

 まあそれはそれ。先月、笙野頼子の『タイムスリップ・コンビナート』に導かれて、海芝浦へデートに行ってきた。一応解説しておくと、海芝浦駅はJR鶴見線の終点で、ホームが海に面しているというとても変わった駅。更に変わっているのが改札は東芝の事業所にしか繋がっていないため、東芝関係者以外は駅から降りることもできないって所。僕たち一般人にとってはただのデッドエンドで、電車が折り返し出発するまでの20分間、駅構内(と隣接してる本当にちょっとした公園)の写真を撮ったり、海を眺めたり、コンビナートに心を馳せたりして潰すしかない。コンビナートと言って想像するような重厚な景色ではなかったのは残念だけど、写真の様に渋谷から1時間程度とは思えないような景色を楽しめるし、やはりちょっぴり異質な空間に来た空気は十分楽しめる。そして、こんなへんてこな駅でいっとう素敵だったのは横に2台並んだ形式的に乗下車処理をするための簡易Suica。ピピッと連続でSuicaを当てて形だけは下車して乗車。

 その後も、小説に出てくるスポットを求めて浅野駅で下車。迷いに迷って「沖縄文化会館」で沖縄グッズをたくさん買って、着色料の味しかしない黄金のインカコーラを飲みながら満足して帰宅。今の砂を噛むように味気ない生活に比べればとても楽しい、そう旅だった。