真実

「(…)私は、私が見える世界を皆に見せるための機械だ」
「ジガ・ヴェルトフ。映画監督だったかしら」
「イエス。僕は僕だけがたまたま知りえた情報の確認と伝播を、自身の使命と錯覚し奔走した」

 プラネット+1でジガ・ヴェルトフ『カメラを持った男』を観る。カメラを持った男がモスクワを撮って回る、という宣伝映画。というだけではなくて、カメラを持った男/カメラ/映画という3つの要素が主役の座を争っているような自己言及的な映画だった。カメラを持った男が、モスクワを撮って回るシーンを撮るカメラの非存在。瞬きする女、光を招きそして閉ざす動作を繰り返すブラインド、そしてその明滅にシンクロするカメラアイ。傾いた姿勢から煙突(?)を見上げる男と、その姿勢に同一化したかのように傾いた映像を写すカメラ。映し出されたフィルムのコマとそしてそのコマが動き出して映像となる瞬間。そして最後に、映像にモンタージュされる男の目。

 男が持ったカメラが撮った映像の背後には、男が持つカメラの存在があるし、そのカメラを持った男を撮った映像の背後には、非人称的なカメラの存在が浮かび上がる。もちろん、それを浮かび上がらせているのはジガ・ヴェルトフの作為によるものだろう。物理的な存在としてのフィルムとカメラ、そして映像がそのフィルムのコマの連続によって成立しているということに意識を向けさせる映画だった。カメラアイと撮影者の目の同一化を信じていながら、フィルムというメディウム、そしてそれが映像になる仕組みに対しては注意深く向けられる目線。

 「世界を皆に見せる機械」の仕組みを詳らかにしてみせるその所作にシンプルな感動を覚えながら、そしてほとんどの映像の背後にカメラの存在を意識しない自分のことを思いながら(勿論、素子とアオイくんの会話に引っ張られて。そもそもジガ・ヴェルトフを見に行こうと思ったきっかけはこの会話に登場してたからという恥ずかしい理由だったりする)、プラネット+1の下にあるカフェ太陽ノ塔でコーヒー。お供は米沢嘉博『戦後少女マンガ史』。最近、何を書くのも怖い気がする。というわけで最近読んで面白かったマンガなどもいくつかあるんだけど僕のちっぽけな勇気じゃ今は映画1本が精一杯。ってまああの一輪の花程の価値があると思っているわけではないです。