光、あれ/だれ、あのおっさん。

 河瀬直美の『かたつもり』は端的に言って感動的だった(映画を観て泣いたのは初めて)。どんなに面白い映画でもどこかで「あと何分だろう」とか思ってしまうんだけど、この作品に関して言えば本当に終わるのが悲しかった。作品が画面と共に時間をも切り取って成立しているものだという当たり前のことを悲しみと共に教えてくれた。河瀬を棄てた父母に代わって河瀬を育てた養母を撮ったドキュメンタリー。くどいほど養母へのクローズアップがくりかえされ、そのショットの時間も相当長い。そして、おばあちゃんの「もうええでっしゃろ」とカメラを嫌気するセリフが何度も繰り返される。
 この作品を見ている限り2人の関係は極めて良好であるが、河瀬とおばあちゃんの関係はカメラを介することで、やっとこのような親密さを得られたらしい*1。実際、河瀬がおばあちゃんの前で普段は笑顔を見せないことに対しておばあちゃんが不満を示し、それに対して「(私は)かわいくないねん」と河瀬が拗ね、さらにおばあちゃんが頑固に「(河瀬が)かわいいねん」と言い続けるというよくわからない喧嘩に発展してしまい、そういう作品外の部分が侵入してくるシーンがある(これが『かたつもり』でのことだったのか、それともおばあちゃんとの3部作の最後をなす『陽は傾ぶき』でのことだったのか記憶が曖昧になっている)。おばあちゃんと河瀬の愛は確かにあるのだろうが、それがぎくしゃくしたものであり、カメラによってスムーズな関係がフィクショナルに構成されているのかもしれない。透明なカメラではなくて物理的なカメラが存在することによって成立する物語。
 おばあちゃんはカメラに対して実によく興味を示す。近所のおじさんはカメラに対して節度ある態度を持って距離を取るのに対して、カメラに対して剥き出しの興味を示してくるのは近所の子供、犬、そしておばあちゃんだ。最大限のアップでおばあちゃんが撮られたその時、おばあちゃんは「この中どないなってんねんやろ」とカメラのレンズを覗き込む。映画館で観ていたから、ということもあるのだろうけどまるで僕たちがカメラの中からおばあちゃんを覗いていて、それがバレてしまったかのような気分になる印象的なシーン。また、カメラを介しての距離感がとても面白い形で-おばあちゃんが河瀬のために作ったスキヤキを措いてやはりおばあちゃんを撮りつづけている河瀬に対しおばあちゃんが「(鍋で)やけどしまっせ」と声を掛けることで-示されるという面白いシーンもあった。
 さて、カメラを介してのおばあちゃんと河瀬のコミュニケーションであるが、その距離が侵犯される感動的なシーンがある。ガラス越しにおばあちゃんを観ながら河瀬はその像を指で撫でる。その迷いのあるような繊細な動きの指が、その後のシーンでカメラを越えて物理的におばあちゃんの顔を撫でてしまう。これはほとんど反則だ。衝動的にカメラを越えてしまったのだろうか。先ほどのガラス、カメラのレンズ、そして(僕らにとってのバリケードとなる)スクリーン、幾重にも守られていたはずのおばあちゃんはついに河瀬との物理的接触を果たしてしまう。使徒リリスの物理的接触*2なんて目じゃない。撮影者の特権、愛を持つものの特権が河瀬にそれを許すのか。

*1:河瀬へのインタビューを何かで読んだ、なんだっけかなあ

*2:早く劇場版観たい