『ジョン・ケージの音楽』 ポール・グリフィス

ジョン・ケージの音楽

ジョン・ケージの音楽

ケージ:プリペアド・ピアノのためのソナタとインターリュード

ケージ:プリペアド・ピアノのためのソナタとインターリュード

 演奏が存在しない(が楽譜は存在している)《4′33″》、ラジオから音源を得るいくつかの曲、後期の図形楽譜によるいくつかの曲、そしてこの《プリペアド・ピアノのためのソナタとインターリュード》のようなプリペアド・ピアノを使用するいくつかの曲ではもはや楽譜と曲との絶対的な一致が見られなくなった。この《プリペアド・ピアノのためのソナタとインターリュード》では最初のプリペアド・ピアノ作品《バッカスの祭》ではプリペアされた音が12音使われただけであったのに対して、《ソナタとインターリュード》では45音ものプリペアされた音楽が使用されている。その一方で《ソナタとインターリュード》ではプリペアされていない音も同時に使われてもいるという点で珍しいらしい。だけどプリペアされていないピアノの音もプリペアされたピアノの音と同様に使われている時それはもはやプリペアド・ピアノという打楽器コンプレックスの鳴らす音のレパートリーの一種に過ぎず、どの音がプリペアされた音でどの音がプリペアされていない音なのかと聴き分けようとしてもそれは無意味なことのように思う。手を加えられて打楽器と化したピアノの華奢な音と、慎重に構成された音の配置によるこの曲は、とても美しい。特に、ボルトやネジによってプリペアされているらしい高音部は、「ガムラン風の美しい微光をまと」っているというグリフィスの言葉のようにオリエンタルな響きを漂わせていてなんとも言えない。
 この本は他にもケージの作曲の特徴のいくつかを楽譜を参照しながら易しく教えてくれるとてもいい本だった。「少ない音のレパートリー」による作曲(僕の好きな、おもちゃのピアノを使った曲に顕著)や、星座図を使った作曲(《アトラス・エクリプティカリス》)、サボテンに触れる音がアンプリファイドされるように指示があり「小さな音」への関心がうかがえる《木のこども》、《枝》など。こう言った幅広いケージの仕事に対しては面白がるのが精一杯だけど、ケージが「作曲者」という地位から漸次後退していき、演奏者や聴衆をそのポジションに置くように企むような謀をなしつつ、それでも聴取上、面白くかつ美しい音楽を作っていたということは驚きに値すると思った。


Insen

Insen

 「ちょっとした更新」をしてもいつの間にかアンテナがあがってしまうのはなんなの…。早朝に起きてこれ聴きながら卒論の下調べ、のつもりだった。最近「曲」というよりは「音」が聴きたくて、そんな感じのCDを手当たり次第に借りてる。教授のピアノの音の残滓がCarsten Nicolaiの電子音に溶け込んでいくんだけど、溶け込むとまた直ちにピアノの音が立ち上がって…とそのプロセスが続いていく。前に書いた芦川聡《Still Way》と比べると、《Still Way》では音がいきなりそこに置かれるの対して、《Insen》では音だけでなくそれが生成され消え行く空間も存在しているという見かけ上の対立があるけど、実際には《Still Way》のピアノの音もまた、周囲の空間から立ち上がり、空間に消えて行くように聴かれるべきであって、僕だって意識はせずともそのように聴いているはず。《Insen》はそういう意味では親切に過ぎるアルバムだなとかなんとか勝手なことを思いながら聴いているといつの間にか眠りに落ちてしまい、結局調べ物は1ミリも進まず。目が覚めてあわてて電車に乗り三田に。


Acousmatrix 3

Acousmatrix 3

 (三田に着いてからも卒論の資料を集めてきたものの全く読む気がしない。ぼーっとしてる)
 Luc Ferrariの《Presque Rien Avec Filles》はフィールド・レコーディングした音源を処理して聴取に耐えうる自然を捏造したものだけど、曲中で繰り広げられる会話を聴いていると何を自然と感じて何を音楽と感じるかっていうのはとても線引きが微妙だと思う。その会話はフランス語によるもので、一見日本の田舎の夏の景色を頭に浮かべながら聴いていた印象に突如違和が生じるんだけど、そこに日本語による会話が挟み込まれたりしたら、やっぱりなんとなく白けてしまうし、フランス語による会話だからこそ映画を観ているような気分を続けられるんだろう。ただその様に考えるのは当然のことながら僕が日本語を解する人間だという条件があるからだ。電車の中で読書していても、外国人の会話は気にならないけど、日本人の会話は気になってしょうがない。日本語も単なる音として聴ければいいんだけど、とそんなことを考えるのは真横の会話があまりにうるさくて怒りゲージがマックスになっているから。