『新・建築入門』、『反オブジェクト 建築を溶かし、砕く』 隈研吾

 以前に書いた飯島洋一の単純に建てるでもなく、ニヒリスティックに建てないでもなく、という、言うだけなら簡単な問題に対して建築家の側で何かやっているのが隈研吾なんじゃないかと思う。
 僕は今年で大学4年生になり(なってしまい)単位もあらかた取り尽しているので、最後の1年は何か適当に面白そうな授業を取ろう、ということで建築様式史の授業を取っているのだけど、今のところその内容と『新・建築入門』の間に特段の違いはないので、ベーシックな入門書としてもオススメできる。ただ、この本では建築を「構築」という視点から捉えており、その構築に潜む思想を様式の説明としてうまく解説している点が面白い。構築という行為を基本に据えているため、一般的なギリシャ建築から建築史をはじめるのではなく、新石器時代の巨石を構築の最初に据えている(もっとも、旧石器時代の洞窟から記述ははじまるけど、それは構築ではないとされている)。
さて、そのような「構築」というキーワードを基本に据えながらも隈は「構築」をネガティブに捉えている。建築史の本格的な記述はなんだかんだ言ってまあギリシャ建築からはじまるのだけど、そこから現代建築に至るまで、すなわち「建築」全体に対して批判的な視点が向けられているということ。「構築というのはまぎれもなく自然を殺傷する行為であった」、ギリシャ建築は極めて構築的な文明であったために、自然の殺傷という行為に対する贖罪を構築において行わなければならなかった、それは例えばギリシャ建築のオーダーが植物によってカモフラージュされていたり(この流れはロココ、アールヌーヴォー、そして現在にまで至る)、また身体というテーマを建築に導入していたり(コルビュジェモデュロールなどにもギリシャの考え方が通底していることを示す)。…(中略!)…。で、そのような構築をミースはガラスの箱を建てることで回避したかに見えたけど、よく考えればガラスだろうが透明だろうが構築は構築であって、リテラルな意味で透明な建築を建てたところで問題から逃れることができるわけではない。ではどうするか?という所で『新・建築入門』は終わっている。
 で、その問題に対する隈研吾なりの答えが『反オブジェクト』で一応語られているというわけ。ガラス建築による構築の回避(オブジェクトの回避、と言い換えられるのかな)を拒否して、主体と世界を媒介するようなミディアムとしての建築をつくること。それが隈研吾の具体的な作品を通して語られていてすごく面白い。建築は建てられなければならない、なんと言ったところで、建てられてしまう。それを考えると隈研吾の作品と文章が面白いのは、なんだかんだ言って建てられていることに対する秀逸な言い訳だから、という感じがする。