全ての絵画は「痕跡」?という問題への冴えない解答

 

20世紀美術 (ちくま学芸文庫)

20世紀美術 (ちくま学芸文庫)

 「痕跡」展に出品されている数々の作品は、インデックス性どうこうよりも、絵画のオブジェとしての性質を露わにするものなんだなと、『20世紀美術』を読んでいてそんなことを考えた。"消去されたデ・クーニング"についてラウシェンバークは「私はもし彼が断ったら(デッサンを消すことをデ・クーニングが断ったらということ)、そのままにして《消されなかったデ・クーニング》という作品にしようと思っていた。どちらにしても同じことだからだ」とか言っていた(まあラウシェンバークの消し去り行為は可能性に留まらず実際に行われたからこそ、そのインパクトが大きかったのは当然だけど)。このことはデュシャンの"L.H.O.O.Q"で"モナリザ"に書き込まれた髭が「剃られた」こととパラレルな関係にあるように思う。剃られた後の"モナリザ"はもはや輝ける"モナリザ"ではなく、教科書の図版として小中学生の暇つぶし対象になっているに過ぎない"モナリザ"だ。イメージの効果を最大限に発揮するような、あるいはそのような幻想を付与されてしまったと言った方が正確かもしれないけど、そういう作品に対してそのオブジェ性を暴露するような書き込み/消し去り行為。そういう観点から見たとき*1、「痕跡」展の作品は、そのバリエーションの豊かさが面白くこそあれ、美術史的に「痕跡」としての意味がある作品は少ないんじゃないかと思った。そういう「痕跡」はせいぜい1度か2度、美術史を汚せば済むだけの話だろう(こういう言い方をするとジェイムソン厨みたいだけど、パフォーマティブな効果は何度も要請されてはいない)。えっと賞状に落書きをしていた作品があったと思うけど、あの作品は賞状という丸めることも破り捨てることもできるのに不思議とオブジェ性を感じさせない物質のオブジェ性を露わにしているという点で日本人の感性からすると面白いものではあった。そして他には、やっぱりあのフォンタナの鋭い一閃が印象に残る、オブジェ性を暴露する行為のはずがそれでもなお、あまりに鋭い一閃であるが故に、強いイメージを保持し続けて(しまって)いる。

 デュシャンはあくまで美術ゲームのプレイヤーとしてモナリザに髭を書き加え、それを剃ったからこそあの作品は重大な意味を意味、美術史に書き加えられた。僕たちは1度ならず、黒板を視界の端に収めながら同じような行為を行っているにも関わらず僕たちの名前が美術史に刻まれることはない。

 ユベルマンの「刻印」展の図録もパラパラ見てはみたんだけど結局のところ立ちはだかるのはあの忌々しいアクサン記号

*1:一面的な見方であることはわかっているつもり