『現代建築・テロ以前/以後』 飯島洋一

現代建築・テロ以前/以後

現代建築・テロ以前/以後

 相変わらず反映論的な色彩は濃いものの、磯崎新への批判を通底音として響かせながら現代建築を批判する点がこれまで読んだ飯島さんの本よりも1冊を通して面白く読ませてくれた。
 まず、グラウンド・ゼロの再開発計画案をつくる/つくらないといった視点から見ている。「つくる」派に関してはアイゼンマンの「どうするにせよ、西欧の文化と価値観が攻撃を受けたのだということを反映させ、最低でも以前のビルの高さから後退するようなことがあってはならない」という発言にその立場を代表させることができるだろう。一方「つくらない」派にはディラー&スコフィディオの「空っぽのままにしておいたほうがずっとパワフルだ」という意見などが挙げられている。そしてこのグラウンド・ゼロのつくる/つくらない論争は阪神・淡路大震災に関しての磯崎新の発言「つくることの悲劇」に接続される。磯崎新は1996年のヴェネチア・ビエンナーレ阪神・淡路大震災の瓦礫をそのまま提示するという非常にニヒリスティックな展示を行ったけれど((この背景として磯崎新の原光景とも言える広島の廃墟は当然指摘される))、このような態度への批判が本書に通底している。(話題を読んだらしい)ユニット派批判や、本書後半の個々の建築家論で挙げられている妹島和世への評論などでも「空虚」だとか「虚しい」などの言葉でのそのニヒリスティックな建築への批判がなされている。もちろん単純に「つくる」ことへの批判も当然なされている、飯島はあまりに早く復興がなされた阪神・淡路地区と、フリードリッヒ・タムスのナチス要塞建築*1と共に生きるウィーンとを比較して、日本を死を内面化できないと言っている、この辺は廃墟論と絡めて考えていきたい*2
 で、まあじゃあどうするのかっていうと、「死」をうまく扱う建築家、飯島さん大好きホラインだとかなんとかが参考にされているのでまあその辺はそんな感じで。あー、でもこの本の特色は日本の建築家の中にもその可能性が見出されているところなので、後半の個々の建築家論こそが読まれるべきなのかな。

*1:http://homepage3.nifty.com/archi-jpg/a_map/austria/flakturm.html

*2:僕も「廃墟のイメージ」だけは散乱しているこの国で、そのイメージに魅力を感じてしまう人間だから。そのような態度を、「抑圧の、一つの過剰な表れ」だと飯島は言う