『平坦な戦場でぼくらが生き延びること』 椹木野衣

 僕はどうも椹木野衣の文章が好きになれない。「さわらぎのい」が変換しにくいところも嫌い。まあそれはともかく、彼(妙に偉そうな言い方だけど変換するのが面倒なので仕方なく今回はこの代名詞を使うことにします)の文章は自らのバックボーンとなっているカルチャー、サブカルチャーによって共感を呼ぼうとしている風なところがあって、そこらへんに共感できないとどうも読み進み辛いのだ。この本を貸してくれた女の子もそしてその友達の女の子も(2人とも17才)、だいたいそう言った点をもってこの本が「イマイチだった」と言っていた。
 このような岡崎京子論を手に取る岡崎ファン(岡崎信者)は、そもそも過剰に岡崎京子に思い入れを持っていることが多いわけで、そのような読者に対して個人的な経験や感覚、趣味に基づく批評を行うのはほとんど致命的な失敗だと言っていいように思う。

 なんてまあ文句ばっかり言っているけど『ヘルタースケルター』に関する文章だけは興味ぶかく読めたのでそれについても少しだけ触れてみる。
 『へルタースケルター』について書かれた「人間離れ」という文章で彼はジャンル論を書いている。まず「神の死」によって芸術が拠って立つところを失ったためにその自律性を必要とすることになった。しかしながらジャンルの自律性を極限まで追求した先にはジャンルの分岐が生まれることになる。「ジャンルもまた、その細分化の果てにもっとも純化され、内容を失いつつあるのだといえる」。 そして彼はこのジャンル論を「神の死」によって「神のしもべ」としての地位を失った「人間」にも適用する。『ヘルタースケルター』の主人公であるりりこは整形を繰り返し、「人間」としての自律性を追究していった果てに、「眼球だけを残して消え去る」。この地点において、りりこは「人間」から解放された、そして岡崎京子のマンガもまた、りりこが「人間」の縁に立っていたように「漫画」の縁で描かれているというのが彼の論の簡単なまとめだ。

 彼が依拠しているジャンル論はグリーンバーグモダニズム論だろう。それは「絵画」の自律性を維持するために要請された一級のフィクションだと勝手に思っているんだけど(体系的に美術を学んだことがないのでこの理解が正しいのかはさっぱりわかりません)、しかしながらその平面性の追求というロジックは既にミニマリズムの誕生を既に内包していた(何も描かれていないカンバス)。ジャンルの自律性の追及が新たなジャンルを生み「純粋にジャンル的になってい」くというのは椹木野衣が書いていることだけど、ここで疑問なのはどうして岡崎京子だけが「漫画」というジャンルの追究の果てに、「別のかたちに転生」できるなんていう特権的な地位を与えられるのかということだ。グリーンバーグモダニズムに依拠して書かれたジャンル論を応用して近代的人間のパロディと言っていいりりこがモダンの地平にあるっていう着想はすごく面白いんだけど、りりこの最後や岡崎京子の「漫画」を論じるにあたって彼はその地平を軽々と(勝手に)越えてしまっている。その点にちょっと疑問は残るけど、資本投下の終わりと共に終わりを告げるりりこのサクセスストーリーと資本主義をつなげて論じた「ヘルタースケルター」なんかと併せて面白く読めもした。

四元康祐詩集 (現代詩文庫)

四元康祐詩集 (現代詩文庫)

 資本主義システムと日常との密かな繋がり。

Helter Skelter: L.A. Art in the 1990s

Helter Skelter: L.A. Art in the 1990s

 椹木野衣が言及している、MOCAで行われた「Helter Skelter」展のカタログ。