『鉄鼠の檻(1)〜(4)』 京極夏彦

分冊文庫版 鉄鼠の檻(一) (講談社文庫)

分冊文庫版 鉄鼠の檻(一) (講談社文庫)

 今回の舞台は明慧寺という禅宗の寺で、当該寺並び近くの旅館において僧侶連続殺人事件が起こる。その寺の由来(禅宗の特定宗派の寺というわけではなく、寄り合い所帯であることなど)や禅の歴史など京極堂シリーズらしい読みどころは多い。舞台が寺であること、殺人の動機が宗教的なものであること、更に先に言ったような禅に関する蘊蓄が単なる蘊蓄の位置に留まらないことなどをもって、ウンベルト・エーコ薔薇の名前』と比せられることも多い。分冊版最終巻の解説でも、やはり『薔薇の名前』が引き合いに出されていた*1。ところで、これは余談なんだけど、解説を書いていたのが僕が授業を取っている先生だったので少し驚いた、そろそろ試験やらレポートやらのシーズンなので名前を出すと検索にかかってしまいそうだから、という理由で名前は書かない。
 まあそれはさておき、『鉄鼠の檻』を読んでいて印象的だったのは、禅という言葉を排したルールが支配する僧侶連続殺人事件に対して、言葉でもって「憑き物を落とす」陰陽師探偵京極堂は、戦う前から負けている、と宣言する。もちろん、探偵役が敵前逃亡するようでは話にならないからなんだかんだと付け入る隙を作って事件は解決するんだけど、このルールの違いを認識して戦わないと宣言する京極堂は、端的に言ってとても賢い。

 中国のガルシア・マルケスと評されている(らしい)獏言のアンチミステリ、というかアンチ探偵小説『酒国』は、検察官のジャックが、酒国市というところで嬰児の食人が行われているという事件を調査しにいくものだ。多少難解な構造になっているので解説を参照しながら読んだんだけど、要するに酔っ払いのルールが支配する酒国市に対してジャックがそのルールもわきまえないで、空気も読まずに乗り込んでいって悲惨な目にあってしまう、という話。大筋としてはこうなんだけど、『酒国』は作品中で書かれている作中作であり、さらにその獏言よる作中作に影響を与える、獏言と作家見習いの往復書簡、作家見習いが獏言に送りつけてくる酒国市を舞台にした奇妙な小説が入り混じった複雑な構造を持っている。だけどその構造についての話はおいておくとして、まあ『酒国』(正確には作中作の『酒国』だけど)は、探偵役であるジャックがその探偵役であるという自覚故に高慢に振る舞い、身を滅ぼしていく話であると言っていい。この点をもって最初にアンチ探偵小説だと言ったわけだ。

 このジャックと比べたとき、京極堂は優秀な探偵というよりは非常に律儀で賢明な探偵だということができるだろう。京極堂の莫大な蘊蓄は他者とのルールを共有するために要請されている、土足で乗り込んでいってロジックのナイフで事件をスパッと解決する探偵と違うのはこの点だ。だがしかし、『鉄鼠の檻』では知識=言葉によるルールの共有が不可能な次元でルールの差異がある。禅宗だけはマジヤバイってもんだ。京極夏彦はそんな律儀な探偵の危機的状況を形だけでも書き出した点で、探偵小説があくまでルールの共有に基づくゲームであるということに自覚的なんだろうなと思った。

*1:今回のエントリの内容からすれば、エントリで触れている点には『鉄鼠の檻』と『薔薇の名前』には違いがあるといえる。『薔薇の名前』は探偵役ウィリアムと(実在する)異端審問官ベルナール・ギーとの間で論争が行われるが、論争もそして事件もあくまでキリスト教というルールの上のゲームであるといえる。