『ギロチン 死と革命のフォークロア』 ダニエル・ジェルールド

ギロチン―死と革命のフォークロア

ギロチン―死と革命のフォークロア

 ギロチンが文化に対して及ぼした影響を小説、演劇、アート、(疑似)科学から一風変わった風習まで幅広く論じた本。ギロチンという平等な殺人機械のその形態がもたらす感情は僕にとってすらなにか特別なものであるように思う、ホットシートとも13階段とも違って。
 なんというか何か特別な感想を抱くわけではないんだけど、ギロチンの処刑執行人の処刑スピード記録なんかがギロチン愛好家の間で重視されていたこととか、名門死刑執行人の元、大サンソンの服装が流行になっていたことなどギロチンにまつわる興味深いエピソードが数多く紹介されている。また死刑囚に髪が邪魔になるようなら執行人が最後の散髪を行うという<死刑囚のおしゃれ>という習慣の残酷さ、デートの前の散髪、デートの相手は殺人マシーンという皮肉は、その語り口で中和されているけれど不気味だ。また民衆の間で(とは言ってもある特権的な資格を持った民衆の間で)広がった最先端の流行「犠牲者たちの舞踏会」というのは、このギロチンの残酷さと不思議な魅力という両義性をもっとも象徴的に示しているように思う、近親をギロチンによって失った者たちだけが参加資格を与えられたこのパーティーは、資格のないパリっ子が近親者を失ったという証明書を偽造するほどの人気ぶりだったみたい。女は髪をアップに男は髪を切って首を露出し(死刑囚のおしゃれ!)、首には赤いリボンを結んだらしい。そしてパートナーへの挨拶は、まるで首を斬られたかのように急に頭を下げるものだったとか。
 ギロチンの犠牲者たちの遺族が参加するのみなら死者への鎮魂としてこの儀式を見ることもできるけど、一般市民によるこの儀式への参加の欲望を見るにいたってはこの儀式を単純にそのようなものとしてみることはできない。死刑執行人への熱狂と差別などにも明らかなように明らかにギロチンは両義的な存在だ。恐怖と崇拝。死刑囚ですら、その断頭台を最高の舞台として最高の決め台詞を披露する、そこにあったのは恐怖だけではないだろう(と同時にもちろん最高の強がりでもある、舞台で失態を見せないために刑務所では擬似演劇が開かれていた)。死刑囚、死刑執行人、死刑見物人、そして後世の人間におけるギロチンの受容をここまで幅広く論じることができたこの本の存在がギロチンの性格を雄弁に語っているように思った。