『国家とはなにか』 萱野稔人

『国家とはなにか』

『国家とはなにか』

 タイトルのとおり「国家とはなにか」について論じた本。「暴力」がキーワードになっている。ベンヤミン(並びにデリダ)に依拠して述べられているように、国家だけが正しい暴力を行使できるのは国家が暴力を巡る争いに勝利したことによる国家と国民の非対称性に基づいている、その非対称性によって正しい/正しくないという暴力に内在するわけではない区別を打ち立てるのだ。「国家が暴力を巡る争いに勝利した」と書いたけど、その国家はもともとはあるエージェントが他のエージェントを暴力によって支配することによって発生したものだ。このように暴力の結果として国家を見るという視点が貫かれている。
 秩序の保証と支配の保証の区別に対して暴力の脅しと暴力の行使の区別を見ていく議論なんかはとても細やかだった。国家は先に書いたように暴力の運動によって定義されるものだけど、その暴力で支配をしようと思えば暴力は行使されるわけにはいかない(それは強制になってしまうから)、暴力は権力と結びつくことでしか支配の道具とはなれない。このような暴力と権力の結びつきについてはアーレントの「暴力について」が参照される、アーレントは暴力と権力を区別するだけではなくその結びつきを否定する、何故なら権力においては「他者と一致して行為する」という点が本質的であるが、暴力においてはそのような要素が欠如しているからだ。他者との一致がえられないとき暴力が優勢になる。この議論は一見納得しやすいがその「一致」の定義が曖昧であるところを筆者は衝く。真の同意と強制された同意の区別では「仕方なく同意する」という行為がはっきりと位置づけできない。アーレントは動機となっている感情の価値判断を重視するあまりこのような曖昧な事態には対応できないのだ、スピノザ服従という行為が実現されるなら感情的価値は副次的なものだとしているが筆者もその立場にたっている。要するに、暴力は権力と結びつくことでそのような「仕方なく同意する」行為を生み出したいのだ。
 ところで国家は暴力を集団化する機制、筆者が言うところの「暴力の加工」によっている。ここでドゥルーズガタリが引き合いに出されるわけだけど、ドゥルーズ=ガタリの言葉で言えば戦争機械がいかに国家に所有されて軍事制度となるかどうかということだ。それにはスピノザのいうところの模倣の感情が重要な権力機制となっている。類似したもの(この感情が客観的なものではないことは重要)への感情移入によって集団的アイディンティティーが形成される。似ているものと似ていないものの区別が暴力に対する感情の温度差をつくり、内と外をわけ、集団を成立させ、暴力の集団的な運用を行わせる。
 ここでまたアーレントの暴力論に戻るが、権力化した暴力がその目的を達成できなかったとき、暴力は権力化というヴェールを取り払ってむき出しの形で行使されることになる。また組織化された暴力、制度化された戦争機械が暴走する可能性も否定されるわけではない。この問題がアーレントによって提起されるのは無論、ファシズムという集団的暴力の暴走があるからだ。ここでファシズム全体主義というまあ正直どう違うのかよくわからない2種の国家形態が明確に分けられる、全体主義においては戦争機械はなお国家のなかに制度化されているがファシズムにおいては戦争機械が国家をのっとってしまっている。ファシズムにおける暴力はもはや手段ではない。手段としての暴力はベンヤミンの概念における神話的暴力に対応する、そしてベンヤミンはそのような神話的暴力を停止させることができる暴力として神的暴力を対置するが、この神的暴力にたいしてデリダは疑義を挟む(『法の力』)。手段としてもちいられるのではない発現自体が目的であるこの神的暴力という概念はホロコーストがまさにそれであるということにならないだろうか、と。神話的暴力に神的暴力をもってすることはこのような難題を生み出す。重要なのは暴力が権力によって加工されるプロセスにどのように介入するかだ。非暴力ですら暴力の加工によって暴力が制御可能なものとなっている必要がある。
 さて暴力は秩序の支配と保証以外にも富の我有化をも社会的機能としている。シュミットによる敵/友の区別は原理的な区別ではなく、この富を獲得しようとする運動が敵と友の区別を生じさせるのだ。そのような富の獲得を目指すために暴力の組織化の運動が生じるのだ。富の収奪と富の生産運動とかはっきりと区別されなければならない。富を所有し、その富で暴力を再度組織化し、さらに…。とこれが国家の運動体としての性格に他ならない。要するに性善だとか性悪だとかにかかわらず富を求める運動が暴力を組織化し国家を生むのだ。このような生産運動は富を一方的に収奪するレジームを要請する、それがドゥルーズ=ガタリは「捕獲装置」と呼ぶ。国家はこのような行為によって行為遂行的に自らが暴力の優位性に基づいて富を収奪する権利をもつことを示す。税の徴収は国家が住民を守るために住民自らが負担するものだとされているがこれは逆で、住民たちが税を払うことで国家のもつ暴力の優位が確立されるわけではなく、暴力の優位性があってはじめて税の徴収が可能になるのだ。ちなみに住民の安全を結果的に守ることになってもそれはあくまで結果にすぎず、富の徴収の権利ならびに自らの暴力の優位性を守るために土地を防衛するにすぎない。
 また所有という概念すらも国家が富の徴収を排他的にしようとすることで他のエージェントが住民の富を奪うことを禁じることから設定される。国家以外のエージェントが富を奪うことを許さない、のが所有権だ。よって個人が所有権を持って所有している富が最初にあるわけではなく国家以後はじめて所有権が設定されるのだ。

 また既存の国家に対する思考への批判も鋭い。まずは共同体がもつ政治機構として国家を捕らえる発想が槍玉にあげられる、国民国家がフィクションであるという指摘をあきらかにしたことに一定の評価を与えながらも、国民的な共同体を乗り越えれば国家を乗り越えられるという発想が残っているということは共同体がもつ政治機構=国家であるという見方が根強いことを示している。国民がフィクションであったとしても国家自体は想像上のフィクションではない。国民国家批判論者は国家=国民国家であるという強固が思い込みをしているのだ。また国家の民営化についても国家形態が私的なものになるからといって国家の根本であるところの暴力の実践が捨てられるわけではない。そもそも暴力には公的/私的などという根拠が刻まれているわけではないからだ。
 またフーコーアルチュセールの方法を国家=フィクションであるという論を展開するのに援用することは彼らの誤解ではないのかと筆者は言う。アルチュセールの国家のイデオロギー装置は諸個人が自らの実際の生存条件に対して想像的にかかわっている仕方としてイデオロギーを定義し、諸個人を承認の主体として呼びかけ、彼らの服従を引き出す装置としてAIEをとらえる。国家=フィクション論は国家が諸個人を服従する主体として作り上げるものとして考えられるのだ。しかしながら、AIE論はそもそも暴力を通じて機能する国家装置の概念が前提とされており、AIEはそのような暴力の実践装置と結びつくことで機能するAIE=国家とし国家装置を切り捨てるような過ち。アルチュセールにとって国家とは資本主義的な生産関係の再生産を暴力とイデオロギーによって保証するための装置に他ならないのだ。
 フーコーの言説分析は人間の認識が言説によって構成されていることを明らかにした、という認識が国家=フィクション論に援用される。フーコーは言説を一定の条件の下で始めてある対象について語ることができる特定の歴史的条件に従って展開される実践だとしているが、国家=フィクション論者は言説が対象を仮構できると考える。対象が言説にかよって語られるためには諸条件の束が実現されなければならない。そのような諸関係は言説的なレベルのみならず制度的な関係も含んでいる。国家=フィクション論は言説が国家を仮構しているとしそのような言説の水準へと分析を閉じる、国家をなりたたせているさまざまな実践や諸制度には関心を持たない。

 とまあ前半部分はこんな感じで後半部分はこの枠組みをつかって系譜学的な検討が行われる。所有権の概念や税収に関する考え方、また友/敵という2分法が実際には国家や富の我有化を巡る暴力闘争が前提となっているものであることが明らかにされるのがすごく刺激的だと思った。アルチュセールの誤読を指摘する部分でも結局は、暴力が前提とされていることを指摘している。国家を暴力の運動とニアリーイコール関係にして論じるなんてとても抽象的で難解な文章になりそうなもんなのに、相当に理解しやすい本でとても面白かった。大学図書館で借りて読んだんだけど余裕がある時に買って手元に置いておきたい。