「Where "I Don't know" is the RIght Answer」 Jonathan Watkins

On Kawara (Contemporary Artists)

On Kawara (Contemporary Artists)

 河原温のデイト・ペインティングは日付が漂白されて提示され(続け)ているというものだけど、そこには何故かある種の恐怖感がある。かといって初期の"浴槽"シリーズのように、強烈な悪意が見られるわけではない、もう少し、静かな恐怖が。
 (以下はまぞうで挙げた本の整理)初期の作品群の背景となっているのは、原爆体験と、戦後の日本がアメリカの支配下に置かれているというような状況であるらしい。"浴槽"シリーズに限らずとも、僕が見た限りの初期の作品群には閉塞感や無気力さのようなものが色濃く伺えるように思う。そんな日本にうんざりしたのかどうかは知らないけど、河原は父親の仕事を手伝うと称してメキシコへと移る、最初はちゃんと仕事の手伝いもしていたらしいけどすぐにやめたとかなんとか。まあそれはともかくここメキシコで彼は電車の遅延の酷さを体験し、時間の知覚というものが文化的に決定されたものなんだという認識を得る。これが、「一般的知覚への疑惑」という彼の作品の重要な背景となったものの原型となっているのだろう。
 この頃、彼は芸術に対する意欲を失いつつあったんだけど、アルタミラの壁画を見ることで芸術へのインスパイアを受け、これ以降あの謎めいた作品群が製作されることになる。
 これを受けて、重大な転換を示したのが"1964 Paris-New York"というドローイング集で、これらのドローイングでは絵画的な要素が失われ、図表的、象徴的要素と文字が前面に出てきている。このドローイング集の1枚目には「EGG」というボールドの字体が単色の背景に書かれており、このシリーズの前年に描かれた"Nothing,Something,Everything"と共に"Date Painting"シリーズの予兆となっている(EGGは無論、孵化の予兆だ)。"Nothing,Something,Everything"では「SOMETHING」という文字が示されているんだけど、このはっきりとした言葉の提示は、河原による逆説的な方法による根本的言語不信の表明となっている。論理の過大評価、言語による想像力の抑圧、これらに反旗を翻すもの彼はヴィトゲンシュタインとは異なり、沈黙という方法は採用しなかった。「EGG」や「SOMETHING」では、言語を使うときに仮定されているものがあからさまな仕方で表現されている。
 1965年の"Title"は、赤色の背景に白い文字で「ONE THING」、「1965」、「VIET-NAM」と描かれたものだ。この作品では、彼の個人的体験(原爆体験)とアメリカによる北爆が重ねあわされている、しかしながら彼はベトナムにいるわけではない。このジレンマは同年作製された"Location"で形を変えて示されている、この作品では黒い背景に白い文字でサハラ砂漠のグラン・エルグの座標が描かれているんだけど、結局その座標が示すものはわかっても、何を表現しているのかは謎のままだ。時の知覚、場所の知覚への懐疑はますます進行している。*1
 ところで、彼の思想的背景となっている人物にはマルクスフロイト(学生時代に読んでいたらしい)、サルトルがいるけど、神秘思想家のグルジェフの影響も大きいようだ。原始の状態への帰還、精神による一般思考の乗り越えなど、確かに河原との共通点は多い。"Date Painting"はエゴを無くすためのルーチンであり、彼の瞑想に資しているということもできる。
 その"Date Painting"が個々の仕事だとすると、それを概括するようなものとして"100 Years Calendar(18,864Days)"が存在する、これは文字通り100年間のカレンダーであり、彼が生まれてから経過した日には色が塗られている。*2
 カウントダウン、死への彼の意識は"I am still alive"シリーズではさらに強調されることになる。このメッセージは電報というメディアで届けらるために、発信と受取の時間差によって、受け取られた時点では「I am…」というメッセージが「I was…」にされてしまう。*3
 彼の時間意識はついに"One Million Years"を作製させる、これは1ページに500年分の西暦が印刷され、それが100万年分あるという本。全ての生きて死んだ人間と、最後の人間にささげられている。*4
 最後に、"Date Painting"のインスタレーションの1つとして"Pure Consciousness"が紹介される。これは"Date Painting"が幼稚園の家具の一部となるように展示されているもの。他人との関係もよくわからず、世界をどう知覚すればいいかわからない子供の頃の意識に対する承認を示しているとのこと。"Carnegie International 1991"だとか"Curiosa Mirabilia"だとかのまるで宮殿みたいなところで行われているインスタレーションも、なかなか凄そう。宮殿のようなところに"Date Painting"が配置されているんだけど、あまり違和感を感じさせない。異物であることははっきりとしているにもかかわらず。表面的な沈黙が、あらゆる場所へこの画を順応させるのか。*5

 とまあ(「Survey」の章だけだから短いんだけど)英語を訳しながら読むという経験をはじめてした。大学3年生にもなってはじめてってのもひどいけど。メモを取りながら読んだんだけど、そのメモを元に上の文章を書いてるから、単なる自分用整理にしかなってない…。ちょっと思ったことは注釈にして書いてみた。要約すると、一般的な知覚や言語への疑いがあるんだけど単純にそれを放棄するわけじゃなく、言語による提示をしている、ということになるのかな。この論考の中で一番印象的だったのは"Date Painting"が「カウントダウン」だという意識で、自分の死を見つめるということ以上に、河原温の死について考えさせられた。"Date Painting"のシリーズが作製され続けているのかどうか知らないけど、河原は"Date Painting"によって自らの生/死をカウント・アップ/ダウンしているんだな。そののっぺらぼうな印象とは裏腹に、極めて個人的な表現が強い作品なのか。

*1:この座標は示されるだけで、ここには漂白された指示が存在するだけだけど、Date Paintingの日付がただ日付を示しているだけではないように、指示先には具体的な場所がある。指示と指示先の分裂と繋がり。

*2:カウントアップであると同時にカウントダウンであるという意識だ、と書かれていた。デートの日や遠足の日、彼女の誕生日の日付をカレンダーに記して×をつけていく行為をよくフィクションの世界で目にするけど(実際にやったことはない)、あれを人生単位でやっているということになる。無論、カウントダウンしていく先が見えないという重大な差異はあるけど。

*3:基本的にはいつでもどこでも他人の「生」を確認し、自分の「生」を発信できるメディアとして携帯電話は存在するとも言えるんじゃないか。もちろん携帯不精な人僕の友達も何人かはいるけど。あと、河原はすごく「かまってちゃん」なのかなと思う、一般的に考えて、「I AM NOT GOING TO COMMIT SUICIDE DONT WORRY」なんていう電報は単なる嫌がらせでしかないよね。

*4:よく例え話で持ち出される「人類の歴史(人生)なんて地球の歴史からすれば…」だとかを形にしたものだといえる、この本では人間の一生はほんの数行で示されることになる。

*5:アルタミラの壁画の作者や、子供たちに象徴される「無知」への河原の関心が伺える。彼の作品の知性にもかかわらず、彼は知性を拒否しているみたい。今や使い古された言い方だけど、原初のカオスへの志向が強いようだ。