『戦後の思想空間』 大澤真幸、『過防備都市』 五十嵐太郎

戦後の思想空間 (ちくま新書)

戦後の思想空間 (ちくま新書)

 アメリカという超越的な他者がいなくなった現在の問題=空虚をどのようにして引き受けるかという問題を提起している。この本は「60年周期説」という柄谷行人の理論をベースにしていて、現代の問題と60年前の問題とを比較対応させて問題を検討している。天皇ファシズムとオウムという、これまでに空虚を充填するために要請されたシステムを、ペーター・スローターダイクという人のシニシズム理論を適用して考えているんだけど、シニシズムってのは「そんなの信じてないってわかってるけど、やってるんだよ」っていう意識で、この本でも例にあげられてるけど「広告なんて大げさなのはわかってるけど、買ってるんだよ」ってのと一緒。さらにデリダが検討したハイデガーの「精神(=自己-外-存在)」という概念検証(精神は自己の内に止まるものじゃなくって、自己自身を焼き尽くしてしまう)、日本の京都学派の哲学について考えて、結果「普遍化がある極限にまで進むと、極端な普遍性と極端な特殊性とが同じことになってしまうという短絡のメカニズム」を見出す。

 結論としては天皇(あるいは麻原)は超越性を否定する超越性、俗物としての超越性として超越的な地位についていたわけで、僕らはそういうアクロバティックな空虚の埋め方以外にどんな方法があるのか?という所でこの本は終わっている。丸山真男の「超国家主義の論理と心理」なんかを読んだときに思った日本軍人の天皇への心酔の滑稽さとか、誰もが思っただろう「なんであんな汚らしいおっさん(麻原)に…」みたいな感情の説明としてはすごく面白かった。自分と他者との相対化の果てにそういう超越的な他者への帰属が発生してしまう、その帰属から逃れるためにどうすればいいのか、っていうけど僕らはそれが楽だからそうしちゃうわけで、地道に大衆を啓蒙していくしかないんじゃないと思う。

タルタロス「…聖騎士よ、貴公は純粋過ぎる。民に自分の夢を求めてはならない。支配者は与えるだけでよい
ハミルトン「何を与えるというのだ?
タルタロス「支配されるという特権をだッ!


 同じように「支配されるという特権」を与えられるにしても昔の絶対君主みたいな単純な形式には飽きちゃったから、天皇ファシズムだとか麻原だとかちょっとテクニカルな形式で、それでもやはりその特権を与えられたがってるんじゃないのかな。今回もまた「銀外英雄伝説」を例に出してもよかったんだけど、久しぶりに「タクティクス・オウガ」をやりたくなっているからこれにしたよ。

 五十嵐太郎『過防備都市』の方は、学校だとか都市だとかがセキュリティを希求して要塞化していることを、違和感を露にしながら、例の列挙によって示していく。大衆が開かれた安全性という方向への信頼をおいていないことから、閉じた要塞化が進行するさまを書き出している。現状分析としても面白いんだけど、本書で挙げられている増加する自警団だとか犯罪地図だとかの名称のダサさもまた面白くて、そういう楽しみ方もできますよ!防犯地図「ヒヤリハッとマップ」とか「たまたまパトロール」とかもいい感じにダサいんだけど、こういう住民団体のセンスのなさをまざまざと見せ付けてくれるのが愛知県春日井市がボランティアとモニターと合成して造った造語の「ボニター」。ボニター、て。
 セキュリティ意識が高まる中で視線を増加させようっていう試みがあり、高齢者の人とかが子供に声をかけたりする運動があるらしいんだけど、これはすごく良いよね。子供が大人とコミュニケーションをとるっていうのは、なんとなく恥ずかしいとかダサいみたいなイメージがあるからやりにくいし、大人の側でも今の子供よくわかんない…みたいなことになってるからコミュニケーションが成立しない以前に発生しないんだろうけど、こういう風に目的はなんであれコミュニケーションが生まれるなら、子供と大人が話しをするきっかけが生まれるのはよいことだな、と思うよ。