『ミース・ファン・デル・ローエ』 D・スペース、他2冊

 この伝記を読み、ファーンズワース邸やシーグラムビルの図を見て思うのは、ミースの建築の美しさは、デザインが美しいとかそういう次元ではなくてもっと根本的な、技術的な美しさなんだなあと思う。ミースの建築を「シンプル・イズ・ベスト」というように単純に言ってしまうこともできるような気もするし、実際僕はそういう風に思っていたけど、その「シンプル」さはパッとデザインを見て解かるほどに「シンプル」なものじゃなかったんだと気づかされた。
 たとえばリベスキンドの建築は言語によって充填されることによって(『Daniel Libeskind: The Space of Encounter』なんかを見て、田中純さんの書いた本を読み)面白さを理解できたけど、ミースの場合は建築言語を(この著者のような翻訳者によって)翻訳されることで面白さが理解できた気がする。材料と機能と精神(本を読んだ印象では特に前の2者)の輝きが見えてくる良い本だった。簡単にこんな風に言ってしまっていいのかわからないけど、技術的材料的な進歩が見られなくなったら、建築言語だけで語ることの限界が見えたのかな。建築とか全く門外漢だからなあ、教科書的なものをちゃんと読んだほうが良さそう、詳しい方は何かオススメがあれば教えてくださると嬉しいです。

 他『魂の労働』と『差異と欲望 ブルデューディスタンクシオン」を読む』を読んだ。後者はすごく丁寧にブルデュー用語を説明してくれた上に最後にはその理論の日本への応用可能性すら示唆してくれる面白い本。高級な文化というあやしい概念がいかに「高級」な文化となっているのかとか、職業と嗜好の固定的ではないけど確固とした関係、何が「高級」な文化で何が「低級」な文化なのか、経済的な資本だけではなくて文化的な資本もあるという発想、そしてその漠然とした「文化資本」(趣味や知識や立ち振る舞い、まあ学歴みたいなのもあるけど)がどうやって相続されるのかなどなど、読んでいて時間が経つのを忘れたのは久しぶりだった(東横線を何往復かしてしまった)。
 ある芸術作品に対して本質的な価値が存在しているとかんがえることが正当であるか不当であるかという問題は暫く考えてみたい。理解できないものを理解できるふりをしている人間が多数居て(しかもそういう行動をとるのは文化的エリートに近づきたいからで、理解しなければならないという強迫観念はその文化的エリートによって生み出されたもの、なのか)、尚且つそれらに対して本質的な価値が存在するかのような言説がエリートから付与されることによって芸術ゲームが行われている、のか。そのゲームが面白いというのはそれでいいとして、その中心が空虚であるかどうかという問題が存在する。