『新宗教と巨大建築』 五十嵐太郎

新宗教と巨大建築 (講談社現代新書)

新宗教と巨大建築 (講談社現代新書)

 新興宗教の建築がどのようにその教義を反映したものであるかを書いた本。導入部でオウムのサティアンに触れた後、まず天理教について書かれ、それと対比するような形で金光教について書かれている。対比と書いたけれども、まず天理教においては、「ぢば」という固定された世界の中心概念が存在し、この「ぢば」を中心として、その後の建築、いや天理教門前町としての都市計画が進められた。しかし金光教においては「広前」という場所が特権視されるものの、それはある特定の場所に固定されるわけではなく、「取次」という儀式が行われた場所が「広前」であり、ある特定の場所に対する拘りが存在しない。これは大きな差だといえる。その後に金光教ともかかわりのあった大本教に触れるという展開。
 建築がどのように教団の教義や理念を反映しているかを記述する以上、当然それらの教団の成り立ちや展開についても触れられているから、日本史選択者であるならば受験時に名前だけは学んだ天理教金光教大本教の3教団についてコンパクトにまとまった歴史や教義を知ることができるのでそれだけでも面白い本だと思う。
 僕が興味ぶかいと思ったのは導入部で触れられたサティアン論で筆者がサティアンは初期の教団建築としては特殊なものではないと述べていることだ。それは、天理教でもそうだったし、むしろ教団初期の場合は教祖個人の性格に左右されることが多いからだろう。あの不気味なサティアンを、ただ不気味なものとしてしか見ない視線ではなく、そのような冷静な目で見ることが出来るのはすごいなあと思う。サティアンへの警察の立ち入りの様子なんかを朝のニュースで見ながら、当時小学生だった僕もあの建物の不気味さを感じていたような気がする。得体の知れないあ人間達が住んでいる得体の知れない不気味な建物。それを不気味なものとしてではなく、教団初期だから…なんて言ってしまえるのはすごいなあと思う。オウムを特別視するんじゃなくて、1つの新興宗教として見るのは本当に難しいだろう、そもそも新興宗教に対する偏見を取り除いてこういった本を書くこと自体がとても困難だろうと思う。