「慾望」、「大洪水の小さな家」、「死体と」 佐藤友哉

 最近財布の中にお金が入ってないことが多くて、今日は人にご飯を食べさせていただくことになった。それで、その待ち合わせの時間まで暇をもてあましたので、大学図書館佐藤友哉の「新潮」掲載の短編を全部読んでしまうことにした。全部本当に短編だったのですぐ読めた。掲載号なんかはキーワード「佐藤友哉」を参照するとよいです。『フリッカー式』とか『水没ピアノ』とか講談社ノベルス佐藤友哉好きの人も一度こっち側のユヤタンを読んでみるといいんじゃないかな、と思いました。僕も薦められて読んだんだけど、良かったです。

「慾望」
 突如、授業中にサブマシンガンを構え、そして撃ちはじめる生徒。彼、彼女達は突如学校を占拠した。理由は、ない。語り手であり教師である私は必死にその「動機」を求める。「理由」がなくこんなことをするなんてことは、ありえないからだ。それに対して占拠グループは代わる代わる先生が求めるような「動機」を答える。でっちあげのね。幼少期のトラウマ、ホルミラクジャ神の降臨、教師へのレズビアン的恋愛。どれもこれも動機になりうる動機だけど、それは全部でっちあげで、彼らには本当に動機がない。よって私と彼、彼女等の間に理解は生まれ得ない。「動機」という物語を否定するという割とオーソドックスな小説。だけど、小説家としては何かもっともっともっと面白い「動機」を据えるべきなんじゃないのかな。物語的な動機を批判するってのはなんとなく現代批評的で、クレバーな小説にはなってるけど決して面白い小説ってわけではなかった。

「大洪水の小さな家」
 目が覚めたら大洪水で周りは水だらけ。兄の僕と弟の文男は屋根の上で世界を見渡しながらも、ショックはない。彼等はそれだけで完結した世界を持っていたために、周りで「何が壊れても何が流されても誰が溺れて死んでも気にしない」。しかし、ふと妹がいないことに気づく。完結した世界は僕と文男と妹の梨耶の3人によって成立していた、よって妹がいなくなるということはすなわち世界が無意味になることを意味する。僕は水没した家の中へ妹を救出に行く。この水没した家の中の描写がとても面白い。父親の書斎で浮遊する書名と万年筆名、水槽から飛び出した金魚の種名、棚から飛び出した高級食器具のブランド名の羅列。それが『ホウレン草』だとか『テレビ』だとか『つめ切り』みたいな名詞までもが強調されはじめる、すべて圧倒的な「他」なのだ。何から何まで「他」であることが効果的に強調されているなあと思った。一瞬特権的な地位を与えられるかに見えた『桃色のタオルケット』も瞬時に切り捨てられる。死へとむかってあらゆる概念が(それこそ『死ぬ』という概念までもが!)どうでも良くなっていく描写もとてもうまい。物語的にってだけじゃなくて文体的にテクニカルな小説も書けるんだなあ。

「死体と、」
 生まれてから死ぬまで、その生涯すべてが闘病生活であり、それでいて笑顔を絶やさず皆に愛され続けた少女のその死に顔は、ひどいものだった。両親は彼女の死体にエンバーミング(死体修復、防腐処理)を施すことを決める。まあその後事故にあったりしてその死体は燃やされることなく、色んな人間に影響を与える、いや、狂わせると言ったほうがよいかも。妹萌えがまたしても重要な役割を果たすのはもはやお約束なので触れないでいよう。死体に振り回される登場人物は悲劇的であり喜劇的である。皆が大真面目にやっているのになんだか滑稽っていうのは僕の好きな感じ、話が少しずれるけど僕が受験日本史が大好きだったのはそういう所にひかれたというのが大きい。最近メッセをしていて片岡蔵相の失言問題*1の話が出てきて、こういう滑稽な事件を教科書は大真面目に書くし、おそらく当事者達も大真面目にやってたんだろうなあと思うと僕は日本の歴史がかわいくてしょうがなくなってしまうんだ。「東京渡辺銀行は今にも破綻しそうなんだぞー!(あー!言っちゃったー!)」
 まあ元の話に戻すと、死体愛好家でもない人間達が思い思いに死体に対して愛着を持ち、振り回される様は読んでいて面白いんだ。死体が死体に見えないようにエンバーミングされているから、人間と死体の中間的存在でもあるようにみんな錯覚しているんだけど。最終的には、警察官の呼びかけに対して、死体はその無反応でもって雄弁と(雄弁と!)死体であることを語る。警察官の思い出もなにもかも、その瞬間に単なるギャグに転落する。

 というわけで、誰か『新現実』を貸してください…大学図書館には置いてないよ…。「世界の終わり」シリーズだかなんだかってやつ読みたい。