「子供たち怒る怒る怒る」 佐藤友哉

 「新潮」2005年1月号掲載の佐藤友哉「子供たち怒る怒る怒る」が、すごい。この物語で書かれる子供たち(僕、八尾、町井)はスティグマを背負っている。しかも、彼らはそのスティグマに対する責任が全くない。ただその状況に投げ込まれただけで、彼らはそれを背負い、差別を受ける。ノーマルな(なんと差別主義的な表現)子供である塩見くんの態度は、どこか小学生や中学生のころの僕に通ずるところがある。自分に都合が悪くなったりすると、すぐにエースを切るんだ。「お前、○○のくせに」ってね。その言葉がどんな意味を持っているかなんて知らないで言ってるんだけど、ただそれが強力な武器になることだけは知っている。まあその言葉の意味を認識した時点で、表向きには「差別なんてしないよ」と振舞うようにはなる、しかし理由を得た差別感情は内側で大きく育っちゃうんだけどまあそれはおいておいて。
 この話はそういうスティグマを背負った少年の心情描写や、それを背負ったもの同士の微妙で繊細なコミュニケーション、ノーマルな少年の悪意、そして「牛男」、その謎めいた残虐性とクライマックスでのヒーロー性!陳腐な書き方になっちゃうけど、正面からとは言い切れないけど、こういうテーマに向き合って書けるのは、ユヤタンすごい。
 ところで、「牛男ゲーム」は僕が転校してくる前から既にはじまっていたわけで、僕はまたしても自動的にこのゲームに投げ入れられた(拒否することは事実上できない、小学校のルールを思い出そう)。最終的な結末において、「この本当に綺麗な街が、地獄の業火で焼きつくされ」ることを望む僕の姿はとてもヒロイックで、雄々しい。だけどその結末に至る過程で「牛男ゲーム」の罰ゲームが極めて重要な役割を果たしている。僕は投げ込まれた環境を内破させたわけではなく、正当な手順をとって終了させたわけだ。罰ゲームが遂行されているのって「この後に及んで」感がものすごく、強い。にもかかわらずみんな大真面目。結局ルールに従ってる(恐ろしく暴力的な描写が喜劇めいて見えるのもこの過剰なまでの真面目さが大きい)。「牛男」だって結局はまた別の、ルールに従ってる。投げ込まれた環境で彼らがそれを背負ったのもルール。むーむー。