「超国家主義の論理と心理」 丸山真男
チョーウルトラハイパー国家主義っていうかー?
- 作者: 丸山眞男
- 出版社/メーカー: 未来社
- 発売日: 1964/05/30
- メディア: 単行本
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日本の超国家主義が一般の国家主義といかに質的に異なるか、ということを検討した小論。ヨーロッパの国家主義においては、真理とか道徳とかの倫理的価値観は教会や個人に委ねられて、「国家主権の基礎をば、かかる内容的価値から捨象された純粋に形式的な法機構の上に置いている」。一方日本ではどうだったかというと、明治維新による将軍から天皇への政治的権力の移行によって、国家が政治的権力と倫理的価値観を一挙に担う形になっていたために、個人の内面(真理や道徳)までもが、いわば国家の支配下にあったということになる。支配下、ってのは正確な言い方じゃないのかも、癒着というか、依存関係というかそういう感じだったということかな。内面=私事を国家=天皇に委ねてしまえるわけだから、天皇からの距離の近い人間(重臣だとか、あとは天皇の統帥権下にある皇軍)なんかは自らの正統性を天皇の名の下に保証できるわけだね。この天皇という究極的価値を中心として天皇への距離を基準とする権力体系ができた、と。丸山は東条英機の演説なんかを引用しながら、日本を戦争の泥沼へと引きずりこんで言った寡頭勢力が自らが国政を左右としていたという自覚を持っていた無かったということを指摘する。彼らは一個の責任主体としてそういう決定をしていたわけではなくて、天皇という究極的価値への依存によって決定していたからそういう事態が起こったわけだ。
それでは、その天皇の究極的価値はいかに担保されているのか、「神武創業の古」へである。天皇また無限のさかのぼることのできる伝統というものに権威を保証されていた。無限を背負う無限から放射される権威に依存して(それをそう呼ぶことができるならば)決定を下していた政府や軍の高官から、一般兵士にいたるまで、そこに責任意識が存在していなかったことはとても理解しやすい。「だから戦犯裁判に於て、土屋は青ざめ、古島は泣き*1、そうしてゲーリングは哄笑する」んだ。
*1:土屋も古島も誰かわかんないんですけど!