「グランド・フィナーレ」 阿部和重 

 阿部和重グランド・フィナーレ」は何だか阿部和重っぽくない(何か主人公の友達がキレて主人公の今までの悪事、つまり性癖なんかをバラすシーンだとか、主人公の自分の娘に対する偏執的で変質的な思い込みなど部分的には阿部和重なんだけど)、普通の小説だったなあと思う。ロリコンの主人公がその性癖が原因となって人生下り坂になって行き、その果てで、少女2人と出会い、彼女らの目的に協力するっていう感じ。ちょこちょこ面白そうなテーマが出てくるんだけど、どれも追求されなくて、多少中途半端な印象を受けた。少女達の裸体を写真におさめたり、キスしたり、あるいはセックスしたりという行為から、それが伝わるかどうかわからないにせよ言葉によって伝えようと決心する最後は、小説家として、物書きとしての宣言なのか。

 ボルヘス『伝奇集』を読み返す。「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」のトレーンや、「バビロニアの籤」の講社、「フェニックス宗」のフェニックス宗のように、現実に存在しない、あるいは存在しているようだけどその存在が明確でないものが、読者の一瞬の隙をついて途端に世界全体を覆ってしまう、その一瞬の世界化が好きだなあと思う。今なおトレーンが僕たちの世界に取って代わろうとしているかもしれないし、講社はあらゆる偶然を支配しているかもしれない、そして僕はフェニックス宗の秘儀を実践しているのかもしれない。