勇気

 勇気というのは僕がビューティフルのスペルを調べずに書いたということ。これから調べるつもりもないし間違ってようが正解だろうが何も言わないで欲しい。
 浅野いにお『素晴らしい世界』の1巻と2巻を買って読んだ。作品外部の要因を持ち込むのは良くないことだとは思うんだけど、こういう系統のマンガを僕はもうそれなりにたくさん読んでしまった。浪人生や大学生、大卒プーのモラトリアムなんていうのは『イエスタデイをうたって』とか『五年生』に、乾いた日常の雰囲気はよしもとよしともとか岡崎京子なんかに触れることで既にマンガ的経験は済ませてしまってる。だから、つまらなったとは思わない、むしろ面白かったとは思うんだけど素直に面白かったとは言いづらい気がする。以前僕は「オリジナルの経験(マンガ史的なオリジナルではなくて、オリジナルという単語が良くないのはわかってるんだけど…)」への固執に対する批判を友達にしたことがあったんだけど、このマンガを読んで自分もまたそこへ絡めとられてしまっていることに気づいた。
 このマンガは短編集なんだけど同じキャラクターが何回も登場する、魚喃キリコの短編集に似てる感じ。基本的な特徴としては立ち止まっていたキャラクターが最終的にはそこを突破して前に進むということが言える(その結果の生/死や成功/失敗は問わないが)。バンドを始める、自転車で飛ぶ、ネクタイを締める。
 しかし「8th program*Untitled」と「12th program*砂の城」のような例外もある。「砂の城」は根暗な女の子が中学デビューした幼馴染の変化にしょんぼりし、最後に思い出の公園に2人で行くけど幼馴染はそのことには触れず、根暗な女の子はその公園の砂場での思い出を回想して終わるというお話。「Untitled」は、最終2話への伏線として特権的な地位を与えられたお話で、同棲を始めて半年目の男女の女の子の方が、その生活の変化の無さに物足りなさを感じながらも、最終的には色々あって、やっぱり変化がないことに対して少し幸せを感じるというお話、ごく平凡なお話。この2つの話にはネガティブ/ポジティブという見かけ上の差異があるとは言え
根本的なところでは「幸せな世界」から前へ進んでいないという共通項がある。
 そして「18th program*春風」と「Last program*桜の季節」ではある奇病が描かれる。その奇病とは「考えることのいっさいをやめてしまう新しい流行病」。実はその奇病とは幸せな瞬間に人を固定する病気なんだ、思い出に浸らせつづける病気。「幸せな世界」に止まり続ける病気。
 「幸せな世界」とタイトルの「素晴らしい世界」はこのマンガにおいては対立しているはずだ。何かを突破した先にしか「素晴らしい世界」はないのだ、「2nd program*坂の多い街」ではいじめられっ子の女の子がチキン・レースに参加し、文字通りフェンスを突破して宙に舞う。結果、彼女はクラスのキングになるんだけど。キング=素晴らしい世界って何だか安直だけど、突破したものの栄光をああいう形で書いておくことは悪くないと思った。「幸せな世界」に止まることへの誘惑に抗うことは難しい、確かに僕もあの奇病の思考停止状態にあるのかもしれない、と思った。しかし思い出の力はあまりに強力過ぎる。幾度となく色々な方法でそこからの脱出を試みたけど一度たりとも成功したことがない。目を閉じれば瞼の裏になんてのもあながち冗談とは言いきれない。思い出の力は恐ろしい。
 疑問に思った点が1つ、これは作品全体に対する疑問にもつながるんだけど、「Untitled」、「春風」では現在の幸せに対する執着が描かれてる、だけどさ、日常生活における幸せなんてのを失う以前から認識することってすごく難しいと思うんだよね。株が最高値の時に最高値って気づくものなのかな、って話。少し下がり始めて、また上がるさって信じてて、だけど暴落しちゃって、そこで始めて最高値、最高に幸せだった瞬間を認識できるんじゃないかな。彼女には臆病なというか、クレバーなイメージを持ってしまったので、そこが気になった。それなりの幸せの高値で売りぬいたぜ、みたいな感じ。