『好き好き大好き超愛してる。』 舞城王太郎

 「ファウスト」系読者の期待を一身に背負ったものの、芥川賞受賞という(読者の)夢を逃した、舞城王太郎好き好き大好き超愛してる。』を読んだ。
 主旋律である「柿緒I、II、III」の他の「智依子」、「佐々木妙子」、「ニオモ」があまりに小説的過ぎるのは一体どうしてなんだろう。小説的すぎるというのは現実にありそうもない、ありえないという意味なんだけど、例えば「智依子」はASMAという内臓を食べる虫に体内を侵された智依子と僕の恋愛小説だし、「佐々木妙子」は夢の直し方だとか夢荒らしだとかが登場するお話だし、「ニオモ」に至ってはSFだ。これらと比較した時、「柿緒」があまりに普通の小説であることに違和感を覚えずにはいられない。「柿緒」パートを読んでいる時に『世界の中心で、愛を叫ぶ』のことを連想したくらい*1。3つの小説的パートを治が「柿緒の死をいろんな形で書いている」ものとして読めばいいのだろうか。あるいは夢を直すミスターシスターが「世界の夢を集めると一つの大きな物語になる」と言い、僕が「夢と現実が包含関係にありながら同時に並列に並んでい」ると考えるのを考慮して「柿緒I、II、III」、「智依子」、「佐々木妙子」、「ニオモ」のそれぞれを「世界」が細切れになったものとして捉えればいいのか。(この小説の構成が「智依子」、「柿尾I」、「佐々木妙子」、「柿緒II」、「ニオモ」、「柿緒III」という順番になっていることを書いておくのは無駄ではないだろう)
 「佐々木妙子」のパートの夢はおそらく小説の隠喩になっているんだろう、僕は小説作家で小説内登場人物でもあり、小説から「出られない」というメタフィクションアンビバレントを書いているのかな、小説内登場人物はそれが小説の中であることに気付いても小説の流れからは逃れられない、「夢の持つストーリーの力はやはり強くてあらがうことなんどほとんどできない」の夢を小説に置き換えたりなんかして。
 ある物語が「大きな物語」にはなり得ないことを意識しないとダメだよという東浩紀の指摘に対して、愛は「大きな物語」になりうるんだよ、と言った…みたいな単純な話だったら読者も楽なんだけどなあ。細切れの「世界」を繋ぎ合わせても、夢を繋ぎ合わせても、この小説が1個の「大きな物語」だなんて誰も納得しないだろう。メタフィクションはいまやリアリティそのものと化したと巽孝之という人が『メタフィクションの思想』という本の中で言っていたけど、この小説は、細切れなものを集めて「大きな物語」を復権しようとしても失敗してしまうという現実の陥穽に落としいれられているような気もするよ。
 (追記)セカイ系のキーワードの説明を読んでいて思ったのだけど、この本はセカイ系批判なのかもしれないと思った。「きみとぼく」を大事には思うけど決して縛られないと言った単純な、恋愛巧者なら自然とやってのけているような、そういうこと。うまく言葉にできないのだけど、もっと普通に、というか…。そんな感じの、当たり前のことを訴えているような気がするよ。
 なんてことは本当は僕にはどうだっていいんだ。上に書いたことなんて全部的外れだろうしね。少し適当に書きすぎちゃった…前振りに近い。僕はこの小説に感動したんだ、「みんな難しいこと言ってるから…」ってちょっと悩んだりもしたんだけど、本当は単純に、ものすごく単純に感動した。部分部分を捉えて繋げた時、僕の「好き」をどうやって処分すればいいかわかったような気がした。良くできた恋愛マニュアルのような本だったよ、僕には。小説を読んでそういうことを思うのは恥ずかしい気もするんだけど、とても感動した、小説論なんかじゃなくて恋愛感にね。「これからもずっとずっと好きだよ」と、僕は同じことを言ったことがあって、そのことを、そう言ってしまったことをどう消化すればいいのかわかった気がする。

*1:芥川賞の寸評でも触れられてたらしい