「揺らぐ近代 日本画と洋画のはざまに」@MOMAT

 「揺らぐ近代 日本画と洋画のはざまに」を見に竹橋まで。企画の狙いについては、日本画/洋画という区別の自明性を疑い、そのカテゴライズを揺らそうとしている、なんてことを確認しておけばいいと思う。その狙いを受け止められたかどうかは別として、とても楽しめた。大雑把な話をしていても面白くないので、面白かった作品に少しだけ触れておこうと思う。日本画がどうとか洋画がどうとか「揺らぐ」以前の対象についてほとんど全く知識がないまま行ったけど、洋画とか日本画っていう言葉から単純に連想するものからズレた作品がとても面白い。カテゴリ分けを脅かすような作品が実に興味深い、とかいう堅苦しい、PC的な意味での面白さではなくて、自然に笑ったりビックリしたりしてしまう面白さ。

 墨によって描かれた雲を背景に鮮やかな服を着たおっさん(龍王)が突っ立っている掛軸。墨による暗い背景と膠による鮮やかな龍王の着衣の対比のみならず、のっぺりと塗られた服が平面的であるのに対して、龍王の顔が陰影をつけて立体的に描かれているために、顔だけが浮き出して印象に残る。帰りの電車の中でもあのおっさんの顔が頭から離れなかった。顔が浮き出しているのは面白いんだけど、絵としては下手なんじゃないかっていう話を一緒に行った友達としていた。ていうかもしかして膠って陰影を出しにくいものなのかな、浅井忠《琵琶法師》にしてもものすごく単純な影のつけ方でコミカルな印象になっていたし。けど膠を使った絵の中にものっぺりとしてないものなんてたくさんあったし、やっぱりこの絵が下手なのか(揺れ動いてる最中だしね)あるいは何か狙いがあってこうしてるのか、わからん。

  • 川村清雄《村上彦四郎(村上義光 錦御旗奪還図)》

 金屏風の中に矩形の枠が描かれていて、その中に画題の図が描かれてる。この枠の手前と奥に屏風の装飾として何かの葉があしらわれていて、この画題の図の部分が屏風空間の奥行きに対して薄いことが強調されているような不思議な屏風。絵の中身を見るっていうよりも、絵が絵であることを見ているような印象。レオ・スタインバーグの言う「芸術に対する注意を喚起する」ような屏風。グリーンバーグのフォーマリズムに対する批判として書かれた「他の批評基準」(『美術手帖』に連載されていた林卓行訳)からちょっと引用、コンテクストの差異を考えると恣意的な引用だっていう批判は免れないかもしれないけど…。

 少なくともこの六百年間に描かれたおもだった絵画はすべて、執拗に「芸術に対する注意を喚起する」ものだった。かつての巨匠たちは、離れ業tour de forceの披露や特殊効果といった場合を除けば、そしてその伝統が十九世紀アカデミズムのさなかで堕落する以前には[見る者にそれが本物であると]信じ込ませたい世界をいわば引用符のなかに入れて提示することによって、つねに苦心しながらも[画面内の空間が現実であるかのような]写実性の効果を中和してきた。


 「イリュージョンに対する安全装置」によってあくまで画面内の主題にのめり込むことなく、あるいはのめり込んだとしても、芸術を見ているという立場を確保することができる、と。

  • 小茂田青樹《出雲江角港》

 左手前と画面上半分の山や中央部の海(湖?)等がぼんやりとした彩色であるのに対して、画面下半分を占める家の群がはっきりと彩色されている。中心部に焦点が合わせられ、周縁部がぼんやりした写真で実際の風景を箱庭化してきた本城直季の写真と同じような印象を受ける。大正の風景画を見て平成の写真を連想するなんてね。