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- 作者: 小川洋子
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2003/03/01
- メディア: 文庫
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- 作者: 小川洋子
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2004/06/10
- メディア: 文庫
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まあそれはともかく、2冊ともとても面白かった。小説があまりによくできすぎているからか、何かを語ろうとしても小説の内部から出て行くことができない、小説の内部どころかタイトルの外部にも。『寡黙な死骸、みだらな弔い』というタイトルが全てを言い尽くしている、中身はこのタイトルの解説文だと言われても今なら僕は納得してしまうだろう。
登場人物たちが、あるいは作品の世界が行う喪の作業(=みだらな弔い)は、例えば死んだ子供が食べるはずだったショートケーキを買ってきて黴が生えるままに腐らせていくことだったり、息子の死を追体験しようと冷蔵庫の中に入ってみることだったり、また人の手の形をした人参が大量に生えてくることだったり、あるいはまた真っ赤なトマトを車でひき潰してみたりすることだったりする。また弔い以外にも、死を意識したような不思議なシーンが何度か登場する、職業を転々と変える怪しい伯父が作るものはプラモデルであれ、身長を伸ばすギブスであれ、また毛皮のコートであれ不思議とバラバラに壊れていくし、ある歌手の心臓は身体の外で剥き出しにされている。
喪の作業を行う登場人物、作品世界は、それぞれの死者に固有の記憶を可視化して追憶する術に長けている。ケーキが腐り落ちていくシーンの短い描写を見て、唐突だけどリベスキンドがザクセンハウゼンの強制収容所を水没させて、その廃墟化していく様そのものを視覚化しようとしていたことを思い起こした、トラウマを克服するために、トラウマを直視すること。曝け出された心臓によって生そのものが可視化され、淫靡とも言えるやり方で死もまた迂回的に可視化されるこの世界で、しかしながら登場人物達はトラウマを克服するどころか追憶に浸っているだけにしか見えない。死者は何も語らないが故に、生者は自らの記憶に残る死者を思い起こし、各々のやり方で弔っている。だが、そのあまりに美しい弔いの手法は死者を弔うためではなく、自ら嘆き悲しむために要請されたのではないかという気がしてくる。「みだらな弔い」というのは、死者のためにではなく自らのためになされるその美しく淫靡な弔いのことを言っているんだろう。そして僕はここまでだらだらと感想を書いてみて、やっぱり作品の外部には一歩も出ることができなかったということを確認するはめになった。