国立国際美術館

 そういや先日、って言ってももう結構前なのかな…、平坦な生活をしてるので何が何時のことだったのかよくわからない。えっとそうだ甲子園の抽選があった日だ。中之島を自転車で爆走してたら何故か高校生が死ぬほどたくさん居て全然進めなくなったので、心の中で舌打ちをし、実際の行動としては自転車のベルを鳴らしまくってたんだ。そんでふと高校生のカバンを見たら「仙台育英」とか書いてあって、ああこの辺の皆さんはみんな高校球児なんだね、今から青春を闘う少年たちなんだね、僕みたいなゴミがベルを鳴らしていい相手じゃないよね…ごめんね…と申し訳ない気持ちになってとぼとぼ自転車を押して美術館まで行ったんだ。できれば来年も甲子園の土を踏むことができそうだったら2列じゃなくて1列で歩いてください、道狭いからさ。

 国立国際美術館には常設を見に行ったんだけど、「三つの個展」、「金子潤展」と2つの企画展もやっていたのでそれらも一緒に見てきた。
 別に良い作品だと思ったわけではないんだけど、印象的ではあったのが伊藤存の刺繍絵画だった。ただ絵の具代わりに刺繍を使っただけの具象的な作品/hもあってそれにはなんら興味を覚えなかったんだけど、糸がある形を形成しそうでありながら中途半端に投げ出されていて画面全体として崩れたイメージを持っているという種類の作品が面白かった。「今にも動き出しそうな」なんていうと陳腐なクリシェだけど、その動きが、子供の頃にNHKで見たようなクレイアニメのような動きとして想像できるので、変に懐かしい。と思ったら実際に刺繍が動くアニメみたいなのもあった。これ見ちゃうと少しげんなり。あくまでイメージが崩壊しつつある、あるいは形成されつつある中で持つ刺繍の潜在的動きが想起できるから面白みがあるんであって、実際にアニメとしてみたらそれは本当にただのクレイアニメと変わらないじゃないか。
 というわけで伊藤存の一部の作品は、刺繍が織り成すイメージとしては不定形でありながら様々なイメージを想起させる配置になっていて、可能性のマトリックスとして面白かった。可能性っていうとなんか大袈裟な気もする、子供的な想像力を受け入れる余裕のようなものが作品にある、とでも言えばいいのか。作品の感想書くの難しいな、こんなんなら書かない方がマシな気もしちゃう!
 ちなみに「野性の近代 再考−戦後日本美術史」記録集買ってきたので、読み終わって東京に持って帰ったら欲しい方に差し上げます。

 話は変わるけどインスタレーションって、だいたいがどうも好きになれなくて、同じ「場」っていうなら帰り道に日が暮れて暗くなった河川敷を自転車で疾走するときの方がよっぽど何か訴えかけてくるものがある。ただこの訴えかけてくるものは芸術的な何かなのかそれとも何か非-芸術的なものなのか。フリードの「芸術と客体性」ってもしかしてこういう話?なんて勝手な誤読をしつつ、昔からよく行く味も接客もイマイチだけど何となく嫌いになれないラーメン屋でラーメンを啜る。うん、やっぱり普通だ。