デ・アーキテクチュア―脱建築としての建築 (SDライブラリー)

デ・アーキテクチュア―脱建築としての建築 (SDライブラリー)

 「アーキラボ」展に行った人ならSITEの「ベスト社社屋」が印象に残っている人もいると思う。この不安定なファザードを持つ建築は一体どのような意図を持って建てられたのか。この本はSITEのリーダーであるワインズによって書かれたもので、そこではパブリック・アートやコンセプチュアル・アート等の現代美術を参照しながら、(こう言って語弊がないか心配ではあるのだけど)建築をパブリック・アートとして、ある種の情報伝達メディアとして復権することをもくろんでいる。大衆と建築との間に双方向的なコミュニケーションを生み出すこと、建築を成功したパブリック・アートと同じように、マスメディアの発達によって疎外的な状況に置かれた大衆との対話の回復。
 パブリック・アート史とも言えなくもないこの本ではピラミッドからトレビの泉、そして(この例が出されているわけではないけど)六本木ヒルズにあるような公共彫刻までを批判的に検討し、その中でも大衆の心理を反映したような作品を成功したパブリック・アートとして評価いる。そして、その延長線上にワインズはSITEの建築群を(自ら)位置づけていると言える。
 毎度毎度同じような批判になってしまうんだけど、ワインズが「集合的無意識」という言葉を使うことからも明らかなようにワインズの考え方には濃厚に反映的な思考法が潜んでいる。当然、「何を反映すべきか」を検討することは意義のあることではあるけど、その作業が充分になされているとは言えず、お決まりの「核戦争の恐怖」だとかどこかで聞いたことのある大衆の意識が掬いだされているだけだ。SITEのベスト社社屋が家の前に建っていることを想像すると、僕とあの崩壊の過程で時が止まったファザードとの間でなんらかのコミュニケーションが成立するような気はする、けど…。
 ワインズが提唱する「脱建築」は、「批評的効果を狙った倒置法の使用や、新しい展望を得るための文脈の供給が含まれている」。従来の建築にうんざりしているワインズによってこの本で好意的な評価が与えられている作品はパブリック・アートと言えるものがほとんどだ。というか、そもそも建築のパブリック・アート化を試みているワインズにとって建築/パブリック・アートという区別は無意味なのかもしれない。建築の具体例は、SITEが自ら提出しているんだしね。
 巻末の付録には、「二〇世紀の諸芸術における、拡大された定義の豊かな遺産を証拠立てよう」として建築の本流に属しているとはいえない作品群が集められている。戦争から帰還したら家が燃えていたために、自らの身体に家の入墨を彫ったというストーリーを書いたシャー・アルマーニや、トレーラーやテント、イグルーと神殿を組み合わせることで「基準」というものを相対化するフランコ・ラッギなど面白そうなものが多数紹介されていた。