総括

 夏休みの総括というかまとめをしておこうと思う。今年の夏休みは結構色んな所へ行けてよかった。

  • バ  ング  ント展

 「消失」に覆われた展示会場。「死亡した人間が所有し続ける車について」はその観念的な不気味さもさることながら、車体の中心が消失しているという視覚的な衝撃も大きい。「顔の消える証明写真機」では自らの顔までもが消失させられることになる。そのように消失させられたことによって、僕たちは逆説的に浮かび上がる輪郭を意識せざるをえない。なんていうまあありきたりな感想も書いておいて(そういう感想を抱いたのは事実だけどね)以下特に気になったところを。
 展示空間の壁には椹木野衣による展示用テキスト「テビル・ ン」がプリントされていた。このテキストも(タイトルを見ればわかるように)例によって文字がところどころで消失させられていてとても読みにくい。読みにくいからこそ返って真剣になって文字を追うことになるわけだけど、その結果そこに発見できるものがナンセンスでしかないというのは一体どういうことなのか(永井豪デビルマン』において悪魔が人間を攻めるにあたって人間の心の弱さを理解していたとかなんとか…)。文字を使ったコンセプチュアル・アートで有名なジョセフ・コスースはフロイトのテキストで壁一面を覆い、さらにそのテキストをこのように横線で抑圧した形で展示していたけど、その展示の形式に目はいってもまともにテキストと批評的に取り組む気にはならないという批判があったらしい。上で書いたように僕は「デビル・ ン」を真剣に読んだつもりだったけど、実際には真剣に見ていただけであって、テキストの内容がナンセンスだとかどうだとか以前に内容なんてどうでもよかったわけ。失われた空間を埋める作業、それを強いるためだけにこの「デビル・ ン」は用意されていたんだと思う。このテキストのナンセンスさは、逆説的にそれを証明してはいないかな。テキストと批評的に向き合うのではなくて、テキストの空白を埋める単純な作業を僕たちに望む「デビル・ ン」は、単純に(しかし美しくはあるが)抑圧を表現してみせただけのコスースの「零と非」とは異なり、観客に能動的であることを要求する点で面白いと思った。

 「キュビズム」っていう様式が、アジアにおいてどのように受容されたのかという企画。それぞれの国や作家による間違った(悪い意味ではないです)受容の仕方が面白い。「ゲルニカ」をパクった「ヒロシマ」には笑ってしまった(これはキュビズムどうこうより西欧の形式の受容っていうところを言いたかったんだろう)。あと縁側に座った着物女性の絵がすごく気にいったんだけどタイトル忘れちゃったな、ハイブリッドな作品だった。東南アジアの方のネガティブ未来派(ひどい)って感じの作品群もよかった、カタログ買ってあるからちゃんとタイトルは補完しようと思います…。

 行ってきました。

 アラビアの真珠。