『法の力』 J・デリダ、『攻撃と殺人の精神分析』 片山珠美

法の力 (叢書・ウニベルシタス)

法の力 (叢書・ウニベルシタス)

 法や権利を脱構築することは可能であるが、「正義は脱構築不可能」であるとデリダは言う。正義に適っているというためには、自由な決断によって行為や思考がなされなくてはいけない。正当な行為/合法的な行為というだけなら、ある規則を運用すればいいんだけど、それは合法的であるというだけで正義にかなっているわけではない、それは自由な決断によってなされたわけではないから。たとえば、裁判官が「法に/判例にあるから…」というだけで機械的に有罪/無罪を判断していたらそれは正義にかなっていない、ってことかしらね。デリダが「新規の判断/新鮮な判断」という概念をスタンリー・フィッシュという人から借りているけど、さらにデリダの言葉を引用してそれを説明すれば「あたかも、つきつめてみると掟など前もって現実に存在していないかのように」裁判官は決断しなければならない。穂積陳重の『法窓夜話』にそういう制度について触れた文章があった気がしたんだけど…また今度確認してみよう。けど法とか規則にまったく準拠しない裁判官だってそんなの正義にかなっているとは言わないよね。だからって決断を留保したりするのもまた正義じゃない。結局「ある決断は正義にかなっている」なんて言うことはできないことになる。で、ある決断そのものだけが、正義なんだ(ってさ)。なんかわかったようなわからないような感じなんですけど、なんといおうとも人間を信頼していなかったらこういうことって言えないと思うんだよね、そんなロマンチストなんだっけデリダって。id:love-joyさんとかまたあの喫茶店で色々教えてください、誤読を叱り付けてやってください…!


攻撃と殺人の精神分析

攻撃と殺人の精神分析

 内なる悪=カコンが外に投射されたら殺人に走るよ、とかなんとか。その辺の説明は主にむすびでなされるだけなんだけど、どうせならこの概念を最初から中心概念にすればもうちょっとまとまった本になったんじゃないかなあ。母を起源とする「カコン=内なる悪」が女性一般に投射されて大量殺人を犯した連続殺人犯、母子の関係が濃すぎて「カコン」が幻想的な一体感の中で子から母へ、母から子へ向けられて母殺し、子殺しが起こる、とかむすびだけでまとめるのはちょっとどうかと思う。基本的には大量殺人犯の家庭環境だとか殺人遍歴だとかの詳しい記述が多い、その家庭環境(主に母からの拒絶や関係の希薄さ)が女性一般への攻撃衝動になってるというのは面白かったけど、1つの事件を細かく扱いすぎていて読んでいて飽きる。親子心中のとこは、この心中っていう概念が日本的なものだっていう話(母親一人が育児の全責任を負わされているために「私物的我が子観」が形作られてるから強い母子一体感の中で子殺しを母子心中としてとらえてきたんだ、てさ)は面白かったけど、基本的には統計が多く出されていてうーんって感じ、分析…?っていう印象が強い、母による子殺しの神話(「メデイア・コンプレックス」)とかも知らなかったから、なんというか色々紹介する本として面白いといえたかもしれない、ただそういうことを期待して読んだわけじゃないし基本的には期待はずれ。