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誕生日から1月経ったわけだけど、1年を24時間に換算するととっくに2時間も経過してしまったということになる。まあ24時間もあるんだから2時間くらい寝ていても良いはずだよね、寝る子は育つ。
- 作者: 村上かつら
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2004/09/30
- メディア: コミック
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「99夏あたし15歳」という話は、要するに好きだったということは覚えているけど、その当時の気持ちは覚えてはいられないという話。家庭教師が
「あのころ必死だった事なんて、なにひとつここまで届いていない」
という教訓的な言葉を吐き、主人公がそれを受け入れてだけど好きでいたことは忘れないと誓う。つまりは、年月による解決に委ねるという安易な解決方法が示されているだけだ。しかし、「なにひとつここまで届いていない」ことは今を生きる僕たちが未来に対して一番に抱くべき恐怖ではないだろうか。好きだった理由は覚えていても(必死だったという事実は覚えていても)、その気持ちを忘れてしまうということは(必死だった対象への気持ちは失われている)、理由の意味が失われてしまうということだ。無論、その理由の根拠は記述できるものではない。すなわち、気持ちを覚えているしかない、恥ずかしい言い回しをすれば、気持ちを抱いているしかない。その気持ちが失われてしまえば、理由はまさに空虚なものになってしまう。そんなことは到底、看過できることではないし、ましてや他人へのアドバイスとしてなされるべきことではない。気持ちを事実に堕落させることなんてあってはならないし、僕たちはすべてを抱き続けたまま生き続けるべきだ。
理由が空虚になったにもかかわらず理由だけを覚えていることも恐ろしいけど、もっと恐ろしいのは更に忘却が進行し、たくさんの気持ちを忘れたことを、忘れてしまうということだ。それは本当に恐ろしいことなので僕は全てを抱き続けなければならない。忘れたことを忘れるという堕落と比べたら、全てを忘れずにいて発狂するほうがよっぽどマシだよ。
あー、えーとソーセージアーキテクチャーが面白そうなので最終日の土曜日に行こうと思います。あとなんだ、前回の更新で書いた西岡智さんが書いた別の掌編を読んだんだけど(これに掲載)ホラーのようでいてどうも「ある、それある」という感覚を抱かせてくれる恐ろしいものだった(まあ上質のホラーっていうのはそういうものなのかもしれないけど)。西岡さんは自分で「悪夢的リアリズム」とそのあるある感覚を名づけていたけど、前回のものにしろ、今回のものにしろ、どこかで感じている閉塞感を嫌な感じで書き出していて、(ちょっと言葉としてダサいのはなんだけど)「悪夢的リアリズム」というのは僕にも十分感じられた。この人の書いた小説をもっと読んでみたい。