『十二の遍歴の物語』 G・ガルシア=マルケス

十二の遍歴の物語 (新潮・現代世界の文学)

十二の遍歴の物語 (新潮・現代世界の文学)

 後書きにも書かれているように「ヨーロッパのラテンアメリカ人」というテーマで書かれた12の短編を集めたもの(自分用メモ、1.亡命大統領、2.腐敗しない死体とヴァチカン、3.飛行機での片思いロマンス、4.偽予知夢、5.電話をかけにきたら精神病院、6.起きたら幽霊の部屋、7.勘違い予知夢によるお墓への拘り、8.幸運にもカキのスープを飲まずに死ななかった、9.トラモンターナは勘弁、10.ドイツ人家庭教師、11.光の海、12.すれ違い、妻は死んじゃってた)。ほとんど全ての話において「孤独」が書かれる。それは亡命していてくすぶっていた元大統領が国に帰るという誘惑を抱いて世話をしてくれていた夫婦の元を離れる形であったり、腐敗せず重さを持たない娘の死体に対するヴァチカンの判断を求める22年間もの戦いであったり、飛行機の横の席で眠るスチュワーデスに対する思いを抱くものであったり、様々な形で書かれている。後で書くけど、携帯電話のない時代はとても良かった時代な気がして、そういうことを思わせてくれる短編集だった。
 いわゆる「マジック・リアリズム」的要素も含まれているけども、マルケスによって書かれるそれはいつもと同様あまりに自然であるためにファンタジックな要素を感じさせない。腐敗せず重さを持たない娘の死体なんかもそうだけど「光は水のよう」という短編がこの12篇の中でもっとも「マジック・リアリズム」的な短編になっていると思う。「水曜日の夜、いつもと同様、両親は映画に出かけた。家の主となった子供たちはドアと窓を全部閉め、居間のライトをつけたまま、電球のガラスを割った。割れた電球からは金色の涼しい光が水のように流れ出した。彼らはそれを出しっぱなしにして、手のひら四つ分の深さになるまで光をためた。それから彼らは電流を切り、ボートを出してきて、家の中の島の間を自由に後悔した」このような現象が起きてしまう原因が、子供たちがスイッチを入れるだけでどうして電気がつくのかという質問をしたときに光は水のようなもので蛇口をひねれば出てくるんだ、という答えを得たから、というのもとても面白い。しかしこの奇妙な話が、読んでいる間はあまりに自然なものにしか感じられなくて、それがマルケスのすごいところだなあと思う(頭悪そう)
 まあそれはおいて、この短編集を読んでいて思い出したのがフリオ・コルタサルの「南部高速道路」。この話の感想を以前に書いたけど、ある一時的な共同体ができたとして、その解体のときに感じるさびしさが僕は結構好きだった。そういった永遠の別れを感じなくなる=孤独を感じなくなるというのは逆説的にとても寂しいことだと思う。別れの後の孤独を潜在的にでも知っているからこそ、その瞬間を大切にするわけだから(恥ずかしいことを書いているのはわかってるけどほかに言いようがなくて)。携帯電話を登場によって僕たちが孤独を感じることができるような別れは「死」のみになった(「大統領閣下、よい旅を」では手紙による連絡があるけど、携帯電話のリアルタイム性に比して手紙の発信から着信までの時間差は孤独を感じさせるに十分だと思う)、いや、その「死」ですらもそのような感覚を与えるのには不十分なのかもしれない。死んだ人間が生き返るとか信じる子供が多いとかなんとかっていうのを一時期よく見たけど、あれはきっとアニメの影響でもゲームの影響でもなくて、携帯電話の影響だと思うよ。孤独を知らないんだから、死を解りようがない。昔は「ばいばい」と手を振って、角を曲がった相手の背中が見えなくなって、おうちに帰る寂しさがあったけど、今は改札で手を振って相手の背中が見えなくなっても次の瞬間にはメールが来るんだから、なんとなくこっちのほうがさびしい。