『アメリカの夜』 阿部和重

 大学生は1月と7月には、皆、アンゴルモアの大王を到来を願ってやまないものだと思う。1999年7の月って当時の大学生はきっと本当に地球が破滅することを祈ったと思うのだけどどうだろう(実際1999年7月の大学の雰囲気を知っている人がいたら教えてください)。その後には、当然マルスが幸福のもとに統治する、つまり、試験もレポートもない世の中が到来するのだ。

アメリカの夜 (講談社文庫)

アメリカの夜 (講談社文庫)

 『ニッポニアニッポン』の主人公と通ずるところがある、中山唯生という「特別な存在」志向の強い人間が主人公の小説。彼はブルース・リーの創出した武道=ジークンドーに関する書物である『魂の武器』や、ディックの『ヴァリス』、プルーストの『失われた時を求めて』やセルバンテスドン・キホーテ』、最後には大西巨人神聖喜劇』、と言ったような本を読み漁りながら自らを特別視する根拠や、世界改革のための計画を脳内で練り上げてそれを実行していこうとする。現実的な革命ではなくて、精神的な革命を起こそうというわけだから、少しローゼンクロイツっぽい感じがした(秋分の日的なものによる春分の日的なものが覆い隠しているものの暴き立て!)。基本的な図式としては、『ヴァリス』の主人公の誕生日が春分の日の翌日であり、唯生の誕生日が秋分の日であるということがある。春分の日秋分の日は世界じゅうどこでも昼と夜の長さが同じになる日だから、そこに運命を見出して、自らの特別性を誕生日に担保しようとしたんだ。しかし、唯生の誕生日は秋分の日であり、ヴァリスの主人公の、そしてこれはさらに重要なことなのだけどキリストの誕生日は(『ヴァリス』の中ではキリストの実際の誕生日がこの日であるという説もあるとされている)、春分の日の翌日であり、それは昼(=光)が夜(=闇)を凌駕しはじめる最初の日だから、唯生は「闇」であり、「俗物」なのだと考えるようになる。彼はこのように容易くメディアからの影響を受けつつ(これが本、ビデオなどの高級なメディアに限定されないことは彼が秋分の日をもっともUFO目撃率の高い日だと報じたテレビ番組を信じ込んでいることからわかる)自らの特別性を持ち上げ、貶め、持ち上げ、貶めとマッチポンプぶりを僕達に見せつける。まあ紆余曲折(と数々の読書体験)があって、この革命理論がそれなりの完成形に達したとき、彼はそれを実行に移すことになるんだけど、そのシーンでの真面目さを追求しつくした挙句の滑稽さは特別な面白さがあると思う。阿部作品を評するときにもっとも良く使われていると思われる「映画的」という言葉を、僕もまたこのクライマックスのシーン(文庫版だと172、173頁)を評するにあたって使いたいと思う。何が、映画的なのか、台詞と動き以外の音をしつこく介入させることによって、映画のスローモーションシーンのような効果を生み出しているからなのかな。
 まあ話の面白さもさることながら、芸術関係の人間のエリート意識みたいなものの描写が面白かった。別に僕はビレバンにはよく行くし、ビレバンは好きなんだけど、どうもあそこの店員の「俺、ビレバンで働いてるぜ」的な顔が気に食わないことがあって、まあ彼らが芸術関係なのかどうかしらないけど、そういうサブカルエリートみたいな意識が垣間見える気がすることが多い。あの店でマンガ探しててタイトル言ったときに軽く笑われたような気がした、というほとんど被害妄想のような意識が根底にあるので僕のビレバン観はかなり歪んだものではあるのだけど。