『花火』 川内倫子、『廃墟ノスタルジア』 三五繭夢 栗原亨

 前回の日記に書いた写真集『花火』と『廃墟ノスタルジア』は、その写真の上手下手に大きな違いがある(ように思われる)にも関わらず、ある共通点を持っているような気がする。
 『花火』の方は素人目に見ても、すごく上手な写真が収められている。タイトルの通り、花火の写真が収められた写真集なんだけど、写真で見る花火が綺麗だってのはとてもすごいことだと思うよ。花火のその一瞬僕は時々、夜中にこの写真集を見返してはありもしない思い出を捏造しては懐かしさに浸ったりするんだと思う。そう、彼女と手を繋いで花火を見に行った、とかね。そんな出来事は存在しなかったにも関わらず。この写真の花火が、写真であるにも関わらず十分に花火なのは、花火の周辺の景色の選択が上手だからかなと思う。花火の写真そのものだけを見せられるんじゃなくて、説得力のある全体を構成しているから花火が生きているんじゃないかな。
 『廃墟ノスタルジア』の方は、その名の通り全国の廃墟の写真がたくさん収録されている。正直な感想なんだけど、この写真は上手な写真だなあとは思えなかった。さらにそれぞれの廃墟に関するエッセイみたいなものが書かれているんだけど、それがまた酷くてとてもじゃないけど読むに耐えられるものじゃなかった。けど、写真はそんなに特別上手く撮れているわけじゃなくて、それに付された文章がひどいものではある(さらに言えばこの写真集で使われているフォントが、廃墟写真集ってのを意識しすぎてて何だか鼻につく)、けども僕はこの写真集がすごく好きだ。被写体を選ぶセンスがとても良いから、かな。雪の中に佇む炭鉱跡を撮ろうって思った時点で勝ちが決まっているようなもの。なんだか懐かしい気持ちに浸りたいあなたにはお勧め。
 ところで、懐かしい気持ちに浸ることができるこの写真集のタイトルに「ノスタルジア」って付けられているように、そう言ったものを喚起させるのがこの写真集の大きな目的の1つなんだろう。そして、何故かよくわからないけど、僕は確かにそういったものを喚起させられてしまった。遊園地跡にそういうものを感じるのは理解できるんだけど(僕にだって、遊園地ではしゃぐような可愛い子供だった頃がある)、雪の中の炭鉱跡なんてものに対してそういうものを感じる回路はどこで作られたんだろう?実家の大阪はほとんど雪なんて降らなかったし、積もることなんて1度2度あったかどうか程度、父も祖父も別に炭鉱夫ではなかったし、落盤で死んだりしているわけではない。だけど、僕の中には確かに炭鉱跡や、さらに言えば花火の思い出なんかを懐かしいと思ってしまう回路が作られてしまってる。これはとても恐ろしいことだ。ありもしない出来事や過去や、見たこともない風景に対して懐かしいと思ってしまうのは、どうしてなんだろう。しかもこの写真集のタイトルがそういう風に感じてもらうのを期待しているように、きっと記憶にもないこれらの風景を懐かしいと思ってしまうのは僕だけじゃないはずだ。いつ、どうやってこんな風な感情回路が植えつけられてしまったんだろう。