「At Interface Value−−メディア体験と殺人衝動」 大澤真幸

 社会学者、大澤真幸の「At Interface Value−−メディア体験と殺人衝動」(『メディア―表象のポリティクス (表象のディスクール)』所収)という文章を読む。本当に突発的に酒鬼薔薇聖斗の連続児童殺傷事件についての文章を何か読みたくなったから、以前から機会があればと思ってチェックしておいたこれを読んでみた。
「魂」が宿っているために、人間は人間を殺すときに強い抵抗(物理的でない)を覚えるのだという仮定をおいた後に、酒鬼薔薇聖斗はその存在を疑い、もし魂が存在するのならば、人を殺すときには物を壊すとき以上の何らかの抵抗が存在するはずだから、人の強度を測定すれば魂の存在を、即ち人が生きているのかいないかが明らかになる…という論理展開の末に「聖なる実験」に至ったのだろうと大澤は言う。
 大澤はそのような「魂」の存在に対する懐疑が生まれるような関係の様態と、「電子メディアが育成するコミュニケーションの様態」の間に親和性を見る。新興宗教の教義や、電話というメディアの変遷を参照しながら、極限的に直接的なコミュニケーションの形態がとられるようになったんだって言ってるのね。インターネットを通じてのコミュニケーションなんかでも、外面の裏側にある内面なんかじゃなくって、さらけ出された内面が直接的に知覚されてしまう。では一般的なコミュニケーションとはどんな形かっていうと、他者を捉えようとするその瞬間、他者は私の知覚から後退して、その痕跡しか残さないっていう形でとられる、ということらしい。この痕跡しか残さない、ということが他者の存在を僕たちに保証するのであれば、必然的に、内面と内面の直接的なコミュニケーションは、他者の他者たる部分にいとも簡単に触れ合ってしまっているために(他者が現前している顔とのコミュニケーション、at interface valueなコミュニケーション)、他者の存在を不安定にしてしまう。
 酒鬼薔薇聖斗は少年Aを殺したあとに、少年Aの首が「よくも殺したな、苦しかったじゃないか」というのを聞いたらしい。そこにおいて、酒鬼薔薇聖斗は他者の魂を、多少なりとも認めざるをえなかったんじゃないか。
 僕もそれなりに、空虚な中高生活を送ってきたし、他者の実感というものも薄いままに生きてきた。僕もそれなりに透明な存在だった気がするというわけだ。とは言っても、そんなにたいしたことじゃない。外面の裏側の内面を読みあうような友達がいなかった、というくらいのこと。そして(僕はそうであることを読者のあなた方に望むのだけど)あなた方と同様に、インターネットで出会った人と(当然のことながらインターネットで出会った人すべてと、というわけではなくて、ある特権的な1人のためにこの文章は書かれている)、それこそ極限的なまでに直接的なコミュニケーションをとることになった。それは僕にとって初めての、快感に近い経験だった。ありとあらゆることをさらけ出した気がする。酒鬼薔薇聖斗は殺した後に、はじめて「魂」の恨み声を聞くことが可能になったわけだけど、僕の場合は、僕の暴力の後にはじめて、その恨み声を聞く。直接的な暴力だったか、象徴的な暴力だったかは今となっては確定できないのだけど、確かに僕は暴力を振るった。その後に、僕は自分があまりに凡庸な、あまりに幻想的な失態を犯していたことに気付いた。「at interface value」なコミュニケーションがうまく行くのはそれがネット上だからで、関係のない人間相手だからなのだ、うん、僕はそういう逃避が悪いとは思わないし、今だってそういう逃避をしている。だけど、顔と顔が向かいあったとき、当たり前のことだけど、顔の裏を読まなければならないんだ。とっても当たり前のこと過ぎて読んでいる人は苦笑するかもしれないけど僕はそれに気付かなかった。酒鬼薔薇聖斗は首の恨み声を聞いて、その顔をえぐったとのことだ。「魂」を求めてね。僕も、まあそれに近いことをしてやっと、ちゃんと他人(他者なんて言い方は恥ずかしいよね)を見ることになったできる気がする。
 僕は愚かな人間のでその後も、何度か似たような失敗はしているけど、本当に少しずつ、やっとまともにコミュニケーションできるようになってきましたよ、と僕は1年くらい前の僕に言いたい。