『ブギーポップ・イン・ザ・ミラー「パンドラ」』 上遠野浩平

 愛を叫ぶかどうかは別にして、いまだに僕は世界の中心への憧れが捨てられない、子供が「サラリーマンなんてだっせーよ」と言ってるのと変わらないレベルで、僕は平凡な日常にはウンザリなのだ。何か、中心があるなら、僕はそこに近づきたい。ウンベルト・エーコフーコーの振り子』では最終的にアッリエという男が主人公達によって作られ、1人の男の嫉妬によって加速された疑似陰謀によって踊らされる。その陰謀に世界の中心を見たアッリエは空虚な世界の中心の周りを踊ることになる。僕はアッリエのことが理解できるような気がする。すぐ目の前に「世界の中心」へのキーがちらつかされたとき、僕は冷静ではいられないだろう。
 『ブギーポップ・イン・ザ・ミラー「パンドラ」』はとてもロマンティックな小説だと思う。「Automatic」も「Stigma」も真の能力ではない。「Stigma」の天色優に到っては統和機構の合成人間ですらある。能力者とただの人間、合成人間によって、つまりただの寄せ集めのガキどもによってなされた予言。しかし、それは確かに彼らを「Heart of the World」へ導いたのだ。彼らが世界に触れていたのは死神が登場していることで証明されている、彼らは確かに世界の中心にいた。無論、「ブギーポップ」シリーズには彼ら以外にも『歪曲王』に登場する歪曲王や『イマジネーター』の飛鳥井仁、『ペパーミント』の軌道十助など世界に触れたことによってブギーポップと対決する者達がいる、しかしこの3者の世界へのコミットメントの方法はどれも他人の心を操作する(強制的ではなく、当人達にとって望ましい形であったかもしれないがそれでも)ことによる世界への接触だったと言える。死神も、作者もそれを認めはしなかった。望ましい形で世界に触れたのは「六人」だけだったのだ、彼らは真面目に無邪気に、少年少女らしく世界を救ったのだ。
 しかし、阿部和重無情の世界』においてはただの公園から世界へのリンクがいとも簡単に行われてしまう、死神がその危機を解決することもない。「かつて人類が経験したことのない、深刻な危機」が1人の普通の人間のパソコン端末によって招来される。
 僕にはうまく表現できないのだけど、阿部的な世界へのアクセスは僕にカタルシスをもたらさない。そういった単純な世界への接触は恐怖こそ感じさせるがなんの感動ももたらさない。『フーコーの振り子』におけるテンプル騎士団の役割を『パンドラ』においては「六人」が代替し、しかもその計画は成功してしまった。阿部的な世界への接触と上遠野的な世界への接触の差異は単純に言ってしまえば味気ない方法だったかロマンチックな方法だったかということになるんだけど、僕はロマンチックな方法では世界の中心で、例えば、愛を叫んだりできないのかな。