『悪魔の涎・追い求める男』フリオ・コルタサル 岩波文庫

 最近、文字を読もうとしても眠くなってしまってすぐグーグーなっちゃってたんだけど、フリオ・コルタサル『悪魔の涎・追い求める男』(岩波文庫、赤)が面白くて面白くて一気に読んでしまった。短編集で、どの話もハズレなしなんだけど、僕が特に好きだったのは「南部高速道路」と「すべての火は火」。
 「南部高速道路」はとんでもない渋滞に巻き込まれ、何日もほとんど車が進まないような状態の中で周りの車との間に共同体が出来ていって…って話。その共同体生活の描写も重要な位置を占めているとは思うけど、それは最終的に、渋滞が解消した後に自然と共同体も解体し、バラバラになっていくその瞬間に主人公と読者が感じる寂しさを演出するためという意味でだ。たとえば、付き合ってる二人が別れる描写の準備としての、仲良しの間の描写みたいな。「現代文明の隙間に生まれた束の間の原始共同体の夢」って訳者が解説で言ってるけど、そんな大げさなものかなって感は否めない。携帯電話がない頃はこういうことがよくあったなあ、と思うんだよね、ちょっと遠くの公園へ出かけたときに、知らない子達と仲良く遊んで、だけど次に会う連絡先の交換なんてしないままみんな帰ってく。もっと近いのは、パックのツアーとかかなあ。知らない人達と出会って、自己紹介して、グループ作って、うまくやって、最終日に空港なり駅なりで楽しかったですねって次に会う期待を持たず帰ってく。そういうのは、寂しいけど嫌いじゃなかった。
 「すべての火は火」は、そのタイトルがすべてを語っていると思う。入り組んだ構造は単純な結末のために用意された作者の仕掛けか。火は何もかもを焼き尽くす。綺麗に焼き尽くす。それだけで十分。
 解説を読んで知ったんだけど、コルタサルマルケスとかボルヘスとかと同じラテンアメリカの作家みたい。まあ同じ匂いはプンプンしてた。「ボルヘスと並ぶ短篇の名手」って紹介されてたけど、確かに、ボルヘスの『伝奇集』にひけをとらない。