『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』 東浩紀 新潮社

存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』 東浩紀 新潮社
 再読、『探求』と『イデオロギーの崇高な対象』を読んだ後だと多少理解しやすくなってる。否定神学の精緻化をラカン(シジェク)に見るデリダ(東)。ゲーテル的脱構築並びにラカン派は結局の所、中心に超越的な「対象a」を不在として見出すことで分析を終える(イェルシャルミによるユダヤ教/ユダヤ的なものという対立もまた外傷が否定的に共同体(否定神学共同体)を組織するという点で同じ)。クリプキも柄谷も「固定指示詞」や「単独性」と言った言葉で固有名詞を語るけど、それは確定記述の束を脱構築しきった後に残る「何か」をそう言った言葉で語っただけだ、ってあたりまできました。岩井『貨幣論』も結局は貨幣を肯定的に述べることはできなくて「偶然なんだぜ、貨幣って実は何物でもないんだぜー」って否定的にしか貨幣を語れなかった。「否定神学」はこんな風に偏在してるよってとこを抑えてまた明日以降続きを頑張りまっす。(できる子の皆さんはどんどん「お前何言ってるの?」的教示をしてくださればと思います)