『デモクラシーの帝国』 藤原帰一、他1冊

 アメリカを「帝国」として捉えた本、だけどその帝国ってのはネガティブな意味ではなくて著者はなるべくその言葉に対するイメージを漂白した意味で使おうとしている。具体的には一方的抑止、内政と外交の連続、軍の警察化の3点が帝国を定義する要素とされている。
 このうち軍の警察化については東京大学出版会の「融ける境 超える法」シリーズの『安全保障と国際犯罪 (融ける境 超える法)』所収「軍と警察」で藤原さんが詳しく展開している。そもそも軍と警察の区別がその規模や法的制約の有無にもとづいている曖昧なものであり、警察の規模を抑えてきた国内における武器の入手可能性、テロ組織の武装水準が上昇していること、国内における暴力の独占が警察を可能にしていたが(これは前に書いた『国家とはなにか』に通じるところがあると思う)、この暴力の独占が世界規模で起こったために反撃の可能性を無視して警察のように軍隊を運用できるようになったこと、そして国内の統制が破綻した国家が生まれたことなどがその曖昧な差異をさらに曖昧なものにしている、ということだ。このような軍の警察化(つまりはアメリカの警察化)の問題点を3点-武力行使の主体、介入の合法性、介入対象の選択-挙げてこの論は締めくくられているけど、このような問題意識は『デモクラシーの帝国』でも既に見られていた。
 アメリカは多民族国家であるが故にイデオロギーによって多様性を統合することで国家としてのまとまりを保持している、そしてそのイデオロギーを受け入れない国を圧倒的な軍事力によって取り締まるのはもはやアメリカの使命だ。まあベトナムにおける失敗やらなんやらで世論や議会が過度の軍事介入に対するストッパーになっていたんだけど9.11のテロによってそのストッパーも外れて露骨な帝国になった(大戦後のアメリカは直接統治を行わず、自らを前面には押し出さない介入によって「非公式の帝国」として君臨していた、ベトナムにおける失敗は軍事戦略の失敗以前に非公式工作の失敗である、その点はあるCIA工作員の成功と失敗を通して書かれている)。しかし著者はこの表現は誇張であると断りながらも「アメリカは、その国内の利益に関わる紛争についてしか反応を示さず(…)アメリカ本土に関わりの少ない紛争は放置してしまう」という、また権力の責任の所在や権力に対する制約のなさなどに対する危機感も書かれているし、「軍と警察」で取り上げられた3点の問題点は『デモクラシーの帝国』から引き継がれたものだと言えるだろう。
 このような問題点の解決については、国連を世界の公共性を主張する機関として強化することでアメリカからの依存を脱却しなければならないという方向が示されている。まあそこだけ聞くと陳腐に聞こえなくもない言葉だけど、アメリカの帝国化、警察化の問題点を見せられた後だと現状を肯定するようなことは言えない。結局その方向しかないのかなあという気はする。経済の方でなんとかするしかないんだろうけど、この本では経済的な話はほとんど完全に避けられている、ウォーラーステイン世界システム論が経済に偏りすぎていることを指摘していたけどこっちは逆の方向に偏っているのかもな、とは思った。なんかよくわかんない感じになっちゃった。しょんぼり。