『戦争の世紀を超えて―その場所で語られるべき戦争の記憶がある』 森達也、姜尚中

戦争の世紀を超えて

戦争の世紀を超えて

 映画監督だったり作家だったりする森達也と、政治学姜尚中の対談本、というより対話本。森達也が感覚的な極論に近いものを述べ、それに対して姜尚中が基本的には賛同を示しながら現実的な話に修正する、という感じが強い。
 基本的に2人は、ナチスによるユダヤ人虐殺を特殊論とする姿勢を拒否する(最初にイエドヴァブネというポーランドの村で行われたポーランド人によるユダヤ人虐殺が語られる、僕はこの事件を知らなかった)。人類に普遍的な問題として見ようとしているわけ。それではどうして人間はそう言ったことができてしまうのかと2人は考える。邪悪さからではなく純粋さからそういう行為は行われるのではないか、というのが2人の一致した見解である。まあ、アメリカの正義感なんかがもっともいい例なんだろう。
 他にも、「被虐」の意識から「加虐」を見つめることへの転換(確かに、被虐ばかりがクローズアップされるからこそイスラエルは止まらないんじゃないかと思った)という重要な提言や、丸山真男の「超国家主義の論理と心理」やヴァンゼー会議*1を参照しながらナチスにおいてヒトラーは決定的な役割を果たしていたのかどうかの検討(これは森達也の「中心が空虚だからまわりが暴走するんだ」理論を無理に当てはめようとしている印象もあるけど)など興味深い話が多い。
 また、アメリカによる「傭兵化」という話が出てきた。僕らはタリバンバース党も、アメリカの支援を受けていたことを知っている。その蜜月関係が終焉を迎えた後の結果も。「正義」/「悪」の二分法ではなくてアメリカに都合が「いいか」/「悪いか」の二分法を採用した結果(そしてアメリカが突如正義に目覚めたという事態)がこういうことになっている。日本も、もしかしたらタリバンとかバース党みたいになってたかもしれないよね。日本と彼らのスタートラインは、一緒だったんじゃないかと思う。国民性だかなんだかしらないけど、たまたま日本は従順なままで居続けたってだけなんじゃないか、とか思った。
 とても真っ当な感覚を持った対話だと思った。朝まで生テレビなんかで自民党の議員に対して姜尚中が落ち着きすぎているかのような反論をするのをよく見るけど、彼のような感覚はとても大事だ。好き嫌いはともかく、とても良いことだよ。

*1:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%BC%E3%83%BC%E4%BC%9A%E8%AD%B0、この会議が官僚クラスの会議であってそこに指導者クラスの人間が関与していたどうか、を問題としている