『アナーキズム』 浅羽通明 ちくま新書

 マンガ読んでばかりだとマンガ脳になって活字が読めなくなるので『アナーキズム』(浅羽通明 ちくま新書)って本を買って読んでみる。受験日本史ではアナーキズムについてはほとんどやらない。僕の記憶にあるのは虎ノ門事件で皇太子を暗殺しようとした難波大助くらい。アナーキストなんていうのは叶いそうもない理想を掲げて滅びの美学と共にどっかーんっていうイメージなんだけど(んで、まあ当たらずも遠からずなんだけど)そういったアナーキズムという思想の復権というか、そんなに無茶苦茶なことばっかり言ってるわけでもないんだぜ?っていう本だと思う。『宇宙戦艦ヤマト』で有名な松本零士の『宇宙海賊キャプテンハーロック』なんかがアナーキズムの参考とされてたりして面白い。一応、内容について思ったことを書いておこうと思う。アナーキズムっていうのは権力の存在を認めないという点において妥協を許さない思想だ。だから共産主義とも相容れない存在だ(共産主義は歴史を見ればわかるように、革命達成のために一時的な権力を要請したし、それは一時的なものに留まらなかった)。この本に書かれている大杉栄のように個人的な関係においても権力関係を排除しようとした徹底ぶり。ロマンチックだけど実現性の薄い彼らの思想。だけど、アメリカのネオコンの主張だって、日本の現政権が主張する民営化論も国家権力を弱くするという点ではアナーキストの主張に近い。もちろん彼らは国家権力どころかあらゆる権力の排除を望むわけだからそこからは程遠いし、アナーキズム的なんて言いがたいのかもしれないけど、方向的には彼らに近い方向であることは違いない。ただ、こうやって国家による統制、支配が退いた後に残る個人間に理性を期待できるのか?ってのが最大の問題だと思う。それを期待してしまうのがアナーキズムだし、できなかったからそういう環境作ろうぜってのが共産主義だったし、いやいや無理じゃん?ってのが今の資本主義国家だろうと思うのだけど。でも今、国家権力が後退していく傾向に日米はあるわけで、最終的に著者がどういう未来を提示しているかっていうと、棲み分け世界。メタ・アナーキズムだって言ってるけど同じ主張の人同士がコミュニティつくって他のコミュニティには干渉しないでやってけばいいじゃん、みたいなの。これをすごく持ち上げてるんだよね。
 僕はこの考え方に賛成したいような、反対したいような複雑な感じ。はてなで内輪っぽい日記を書いてる僕は、それを叩かれたときに「別に内輪にむけて書いてるんだからいいじゃん」って言った。そのときは本当にそう思っていったんだけど、後で自分の発言がすごく気持ち悪い気がしてきた。別にイデオロギー戦争しろとかそういうことを言ってるわけじゃないけど、閉じこもって平和にやればそれでいいのかっていうとすごく気持ち悪い。「うまくやる」っていう点だけを見れば棲み分けはかなりいいアイデアだとは思うんだけど。
 ところで、前にリバタリアニズム*1アナーキズムの違いみたいな話をしたんだけど、最大限の自由と無制限の自由ってのが大きな違いだと思う。無制限の自由とは言ってもそこには人間の理性による歯止めを期待してて本当に無制限なわけではないんだけど、その理性を大前提だとしているから無制限の自由ってことになるんだと思う。『宇宙海賊キャプテンハーロック』ではコンピューターの指令で乗組員は義務を果たすわけだけど、それは理性を外部のコンピューターとしてやっぱり前提してる。「なんでも自由なんだ」的な海賊船の中で、みんな好き勝手やっているわけだけど、なんだかんだ言って非常時になったら「やることはやろうぜ」なんだよな。自分自身でみんなが絶対に「やることはやれるんだ!」っていうのがアナーキストのドリームだし「やることやるほど人間ちゃんとしてないから最低限の国家は必要」ってのがリバタリアンだと思うの。