最近のマンガ読んでばっかりぷりはひどい。土曜日は一応授業出た、『リバーズ・エッジ』の感想文を先週みんな提出していたらしく(土曜日の授業はマンガを読んだり映画を見たりしてその感想を話し合う授業)、その発表をしていてカヤ気分を味わっていたのだけどその内容が「岡崎は90年代的で…」とか「いや80年代後半の…」とか作品内容に全然言及しないどっかで聞いてきたんであろう批評気取りばっかりですごくつまらなかった。僕もオリジナリティーある素晴らしい批評なんてのができるわけじゃないけど、それなりに内容について考えたりはする。人の批評とかそういうのに影響されただけの感想だけど、それを僕は自分でそれなりには消化していると思ってる。あの発表者の人たちよりはまともに『リバーズ・エッジ』を読んだなあと思う。「とにかく読んでください」とか言われてもみんな読んできた上でその感想を発表してるんだからさ。
 「イジメ、セックス、ドラッグ、リストカット…」はそれが日常的なものになっていなければ意味がないし、だったらそれを描いてることに意味を見出してもしょうがない。発表者の2人は「イジメ、セックス…」を描いた作家として評価したり叩いたりしてたんだけどそれは方向がズレてるんじゃないかなあと思う。それらが当然とものとなってて、単なる日常描写になっていて、そんなものを描くことで評価されるような時代が過ぎ去ってて、はじめて「平坦な戦場で僕らが生き延びること」について書けるんだと思う。「平坦な戦場」であったことが、ルミちん姉妹が血を流して、あるいは田島カンナが黒こげになってやっと、認識できる。単なる日常描写に加えて描かれる田島カンナの手紙、ミートボールになった猫、狂えるルミちんの姉、平坦な戦場での小競り合い。日常の上に描かれる物語として僕は意味があると思ってるんだけど違うのかな。
 このようなことを書いて1週間遅れの感想文を提出した(当然こんな文体じゃないけど)。死体について書かなかったのは意図的というか僕がそれについて何かまとまった考えをいまだに見出せていないからです。「イジメ、セックス…」とは違う舞台装置だとは思うし、日常側ではない何かだとは思うんだけど…。山田くん、吉川こずえ、死体の側について何も書けなかったのはどうもなあと思うけどとりあえずこれで提出。マンガ(もっと言えば芸術作品全般)の魅力なんて言い尽くせるものじゃないと思ってるし、理由もなくこのマンガのここが好き!っていうのもある(『リバーズ・エッジ』ならそのタイトル、河川敷のセイタカアワダチソウ)、そういうものについて「ここが好きなんだよー」って言いたい欲望もあるんだけどな。ただそれだけを授業で発表してもなんの意味もないし、それに共感できるかできないかっていうだけのレベルになっちゃうから今回は保留。